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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

見寺コンペにむけて(Ⅰ)

 25日(金)に前期最後のゼミがあり、その最後の最後に某助教を交えて、安土城見寺再建・学生競技設計に関するミーティングをおこなった。「見寺」は、滋賀県の特別史跡「安土城跡」にある臨済宗の寺院である。フロイスの『日本史』によれば、信長が本能寺で暗殺されるわずか19日前に竣工したとされる。主要な堂塔は甲賀など近隣の地から移築しており、安土城天守閣の壮麗さとは対象的に、やや質素な山寺の趣きを感じ取れる。当初は真言系だったようだが、17世紀の半ばに臨済宗に改宗した。文化年間の作という近江名所図絵の伽藍は改宗以後の姿を伝えるものである。当時の寺領は227 石5 斗余りで、18 世紀末には本堂、三重塔、仁王門、書院、方丈など22 棟の建物があったとされるが、安政元年(1854 年)、三重塔・仁王門を除いて主要な建物のほとんどを焼失してしまった。現在、本堂は礎石を残すのみとなっており、今回、見寺主催の本堂復元案コンペに応募している。礎石の配列をみると、禅宗様仏殿のような方3間(ないし5間)裳階付の平面とはまったく異なり、内陣と外陣を分かつ間仕切りの礎石列のほか、外陣の側には床束の痕跡も明瞭に残っている。また、身舎の入側筋の外側には幅半間の庇が四周をめぐり、さらにその外側には縁束の痕跡を残す。
 この遺構をみる限り、いわゆる内陣・礼堂形式の平面が想定されるであろう。床はもちろん四半敷の土間ではなく、板張りもしくは畳張りと考えるしかない。くりかえすけれども、本堂も近隣地域からの移築であり、三重塔が15世紀中期の作となれば、本堂もその年代に近い現存例を探し出して復元のモデルとするほかないだろう。

 コンペの作品提出まで2ヶ月を切り、模型製作や製図を始めたいところだけれども、その前提となる文献や絵図の解読、参考となる現存建築例の蒐集などがまだほとんど進んでいない。夜のゼミでは、某助教がこれからの作業進行と問題点について、細かく洗い出してくださった。途中から、教授もミーティングに加わられた。教授は、審査員を務められるものの、もともと「復元」の経験が多いだけに批判的なところも多分にもっておられ、わたしの説明に対して、「甘い」「分かっていない」「文献が読めていない」など、かなり厳しいコメントを連発された。

 わたしの場合、なにより戦国時代~織豊期の時代性、そして、信長という人物に対する理解が浅い。この理解を深めない限り、コンペは惨憺たる結果に終わってしまうだろう。助教と教授のコメントを聞きながら、それを痛感した。

 真夏の夕立ちは、アッという間に降り、アッという間に去っていく。ぼぉ~っとしていたら、ずぶ濡れだ。しかし、嫌な雨も夕立ち後には「打ち水」となって、心地よい涼しさをもたらす。いまの自分はずぶ濡れだが、これから清涼感に向かって疾走していきたい。  (Mr.エアポート)


  1. 2008/07/28(月) 00:14:00|
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