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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

奥の細道(Ⅲ)

土砂崩れ01車窓01


一関本寺の農村景観

 平泉でタクシーの運転手に名物料理について訊ねた。蕎麦も美味しいところだが、「餅の文化圏」なのだという。餅とはなにか、と問えば、ずんだ餅とか柚餅子(ゆべし)とか。要するに、ここは伊達の藩領だったのである。少し北にあがると南部藩に変わる。とたんに、「餅」は消え失せる。
 今年6月14日早朝の「岩手・宮城内陸地震」は、まさにこの伊達藩と南部藩の境周辺で発生した。地震の規模はマグニチュード7.2、最大震度は6強(岩手県奥州市、宮城県栗原市)であったという。

土砂崩れ02
 視察の日は日本中が大雨の被害に曝されていた。とくにひどかったのは北陸と東北日本海側で、岩手・宮城の雨はそうひどいものではなかったのだが、一戸を7時半に出発したジープは予定時刻の10時になってもJR一関駅に着かなかった。車を運転するのは御所野縄文博物館の高田館長で、後部座席には前日インターンシップで一戸入りした研究室3年のガード君ともう一人。ガード君と同い年で、二戸出身の女子大生がスーツ姿で坐っていた。彼女はKK館大学の歴史学専攻で、「博物館実習」の初日なのだという。彼女以外の3人は顔見知りだが、彼女のことだけだれも知らない。「蔵をもちたい」だとか、「忍者になりたい」だとか、不思議な発言を連発する彼女に3人は圧倒され続けた。
 JR一関駅からただちに一関本寺をめざした。ところが、通行止めの道路が多く、はなから道に迷いっぱなし。こりゃ、今日の雨の災害かいな、と交通整理の方に訊ねると、「大地震の後始末」だとのこと。あちこちうろうろして、民家のような案内所を発見した。わたしたちはすでに重要文化的景観「一関本寺の農村景観」のなかにいたのであった。

骨寺11景観01ジープ3名

ギター
 本寺の語源は「骨寺」だという。鎌倉時代の『吾妻鏡』に村の四至が示されており、「陸奥国骨寺村絵図」二葉により中世村落のイメージを視覚的に想像できる。その絵図に「骨寺跡」「骨寺堂跡」の記載があり、鎌倉時代以前には「骨寺」と呼ばれる寺があったことが分かる。それは、おそらく分骨のための寺だったのではないか、と言われている。
 この地は平泉の全盛期に歴史にあらわれる。藤原清衡が蓮光という僧を中尊寺経蔵の初代別当に任命する。蓮光は、私領であった骨寺村を経蔵に寄進した。くだいて言えば、経蔵の維持費用を賄う荘園としたのである。以来、15世紀ころまで骨寺村は経蔵別当領であり続けた。二葉の絵図は、その時代の村落の姿を写したものと考えられる。その絵図と現状村落の寺社・水田・屋敷地の配置構成がよく似ているのだという。この文化的価値を高く評価した文化庁は、平泉の世界遺産登録プロジェクトに本寺地区を取りこむことを企てる。その流れは以下のとおりである。

本寺02絵図02縦01 看板02骨寺史跡 本寺02絵図02縦02

 まずは2001年4月、「平泉の文化遺産」が暫定リストに登載される。2003年6月、「平泉の文化遺産」の推薦資産に「骨寺村荘園遺跡」を追加。2005年3月、代表的な寺社や岩屋など9つの区域が国史跡「骨寺村荘園遺跡」として指定され、同年8月には、日本政府が世界遺産への推薦を決定するとともに、「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」と登録名を改称。ご存知のように、この前年(2004)、景観法の制定にともない、文化財保護法に「文化的景観」の制度が取り入れられ、2006年に「一関本寺の農村景観」が「近江八幡の水郷」とともに最初の重要文化的景観に選定された。今回の訪問で、なぜ「一関本寺の農村景観」が文化財保護法改正直後に重要文化的景観になったのか、よく理解できた。
 国や自治体の努力はみとめよう。お疲れ様でした。ただ、こうして活動の流れを振り返ってみると、いささか性急な感が否めない。「骨寺村荘園遺跡」と「一関本寺の農村景観」だけとってみても、もっともっと深い調査研究が必要だったのではないだろうか。
 願わくば、「一関本寺の農村景観」のなかに平泉の文化遺産が点在していれば、世界に類をみない高質の文化遺産と評価されていただろうが、両者は10㎞以上離れている。経蔵別当領という地位もまた、両者の関係が近しいという決定的な役割を果たしているものなのかどうか、わたしのようなぼんくらにはよく分からない。ただ、史跡を中核とする文化的景観の保存の手法を知れた点ではまことに勉強になった。

平泉と本寺の位置関係

本寺景観ゾーン


本寺01景観01民家01



骨寺10民家アップ01

骨寺11景観02イグネ01遠景01
 本寺地区の民家は、なかなかおもしろい。どうやら平入らしいのだが、正面に近い妻側は入母屋、背面の妻側を寄棟としている。なにやら御所野の縄文土屋根住居を近世的に発展させた外観のようにみえなくもない。少なくとも、片面入母屋、片面寄棟の民家は全国をみわたしても稀少例といえるだろう。ともかく、これが民家の一般型で、いまはみな赤い鉄板を被せているが、もちろん以前は茅葺きであったにちがいない。この民家をイグネと呼ぶ屋敷林が囲む。民家の密度は決して濃くない。集落地理学で「散居村」とか「疎塊村」と呼ばれる密度に近い感じがした。

神社01石像01




  1. 2008/08/22(金) 02:05:27|
  2. 景観|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:3
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コメント

こちらでははじめまして!

その節は大変お世話になりました。
私にとって浅川先生はとてもインパクトが強かったです。

機会がありましたら、ぜひまた楽しいお話を聞せてください!

  1. 2008/08/23(土) 20:31:42 |
  2. URL |
  3. 二戸のヒト #G6KIGzIs
  4. [ 編集]

二戸のヒトさん

もう東京に戻りましたか。
ガードくんと恋に落ちたりしてないでしょうね?
  1. 2008/08/24(日) 22:46:51 |
  2. URL |
  3. asax #90N4AH2A
  4. [ 編集]

まさか先生からお返事をいただけるとは思ってもいませんでしたっっ!!

先生はいつも充実した生活をおくってらっしゃるのですね、とてもほほえましく、うらやましくなりました。
これからもそのままでいてくださいね
  1. 2008/08/30(土) 20:04:58 |
  2. URL |
  3. 二戸のヒト #G6KIGzIs
  4. [ 編集]

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