苦境と忍耐 TK町から送られてきた黒帯くんの
レポートを読み、不安な気持ちが宿りはじめた。みなさんはあの記事をどう読まれただろうか。「こんなに充実した一週間は、これまで経験したことがないかもしれません」という冒頭の一文はなんとも感動的だが、「私は今、考古学漬けの毎日です・・・」と続く段落を読むにつけ、早くも「えっ??」という違和感を教師は覚えた。そして、第3段落に「最初の頃は、・・・少し気まずかったし、考古学の分野も初めてで戸惑いもおおいにありました」とあって、さらに第4段落には「TO大の先生や学生皆さんの前で進行状況の発表や、発掘日誌をアドバイスを受けながら毎日提出していくうちに、必死で、先生・学生の話をメモにとって頭に叩き込んだり、博物館で勉強したりと、がむしゃらに頑張っています」とある。

わたしはますます「おかしい」と思い始めた。さらに読んでいくと、「夜の宴会がめちゃくちゃ楽しい」としながらも、「・・・少し寂しいです。知っている顔が恋しいので、浅川先生が来られるのを楽しみに待ってます」で文章が終わる。
このレポートは「充実している」「頑張っている」という表現を前面に出しながらも、その行間に「不安」や「孤独感」を暗号のように散りばめたメッセージだと思えてならなかった。心配になったわたしは、KT市の担当官に対してクレームに近いメールを深夜送信した。鳥取空港から飛行機が飛びたつ7時間ばかり前のことである。
この夏、黒帯くんをTK町に派遣したのは遺跡整備の目玉として復元予定のオホーツク文化10号住居の基本設計が研究室に委託されてきたからだ。後期、黒帯くんにこの復元設計と模型作りを担当してもらおうと考えたわたしは、毎夏TO大がおこなう発掘調査演習の期間に黒帯くんを派遣して、KT市の文化財関係者やTO大の先生たちと交流を深め、オホーツク文化の基礎を学び、住居遺構から得られる情報を最大限収集してくるのがよいと思っていた。
KT市はあきらかに勘違いしている。わたしは7月までに何度もメールで相手方の無理解を修正しようと試みた。その結果、あれだけメールを流したのだから、すでにこちらの思惑は十分通じているはずだと判断するに至った。これが甘かった。考古屋さんたちは、どんな学生でも発掘調査現場に放り込んでおけばよいと思っている。あとは、土日に近隣の博物館や復元建物に連れていってやれば満足して帰っていくだろう。それで、復元設計ができると思っているのだから、始末に終えない。
わたしはあらかじめ、以下のお願いをしていた。
1.黒帯くんの派遣は、オホーツク文化住居復元の前提段階にあたるものなのだから、復元に必要な基礎知識を学び、必要な情報を収集することを第1の目的とします。
2.発掘調査実習への参加は不必要ではないけれども、それは全日程の50%以下にしてください。
3.したがって、考古学を専攻するTO大の学生と黒帯くんのカリキュラムは別メニューにください。黒帯くんの場合、「座講」と「視察」が重要です。

女満別空港から現場に向かう車中、不安は現実であることを確信した。昨夜わたしが発信したメールすら読まれていないのだ。はたして、チャシの現場につくと、黒帯くんはトレンチの脇で断面図を実測している。久しぶりにかれの笑顔に接し、心底安堵する一方で、不信感はますます増幅していった。
黒帯くんがTK町入りしたのは8月20日。わたしが現場を訪れたのは8月28日である。すでに9日という長い時間が過ぎているのに、かれはまだ現場にでているではないか。残された時間は移動日を含めても5日しかない。過ぎ去った9日の間に若干の「視察」はなされているようだが、ただのいちども「座講」はおこなわれていなかった。
わたしは、現場にいた関係者全員(もちろん学生は含まない)にクレームを発した。考古屋全員が「復元」を舐めている。遺構図一枚渡せば、あとは適当にちょいちょいとCADで図面を仕上げ、模型も作ってしまうと思いこんでいるのだ。その程度の認識だから、これだけの扱いになるのだろう。鳥取から学生を派遣して、その指導教員までやってきているというのに、関係者全員での建物復元に関する会議を開くという発想さえない。わたしは飲会のためにやってきわけではないのだ。

言いたいことは言ったので、宿舎に移動した。TO大実習施設の宿舎は素晴らしい。わたしが泊まらせていただいた教官室(←)はホテルのスウィート・ルーム級ではないか。夕刻、わたしともう一人来られた教授の歓迎会と称して、食堂で飲会が開かれた。歓迎会を用意していただいたことについては、感謝申し上げます。ありがとうございました!
食堂での宴会で、教官席と学生席は分かれていたが、しばらくしてひとりのTO大生が教官席につき、人なつこく話しはじめた。わたしはその4年生が近田春夫に似ていると思ったが、かれは自ら南こうせつに似ていると言った。すでに大手銀行に就職先が内定している。最近は考古学からこういう途に進む学生も少なくないらしい。かれは強烈な野球フリークだった。曰く、「全盛期のカート・シリングでも全盛期の岩瀬には敵わない」「日本代表の監督にするなら堀内」「世界最強のバッターは小笠原」というたぐいの発言が次々と口から飛び出してくる。明るく楽しい野球談義がそこでしばらく続いた。その会話にいつしか黒帯くんも加わっていた。あとで分かったことだが、黒帯くんと自称「南こうせつ」君は同室で、日々の生活をともにしていた。
宴会がお開きになった後、教員はわたし一人、ほかに何名かの学生が食堂に残った。そのアフターアワーズから翌日にかけて、いろいろな情報がわたしの耳に飛び込んできた。そうして、黒帯くんの苦労を知った。最初の頃「気まずかった」理由、「寂しい」という心情の背景もよく分かった。いちばん驚いたのは、発掘調査の初日に「TO大以外の学生は参加してほしくない」という訓辞がまずあったらしく、実際、札幌の私立大学からやって来た学生2名は1週間後、逃げるように現場を去っていったのだという。発掘調査を目的とした考古学専攻の学生ならいざしらず、KT市委託の復元事業のためにやってきた建築系学生の黒帯くんが、そのような謗りをうけるいわれはまったくなく、実習に参加し続けたことはなんら恥ずべきことではない。問題はかれを現場からあげなかった市側にある。もっとも、史跡の現状変更にあたる発掘調査の申請主体はKT市であって大学ではないから、TO大の教師がTO大以外の学生を発掘現場から排除する権利をもたないと担当官は顔をしかめていた。正当な見解だとわたしも思う。
いずれにしても、TO大以外の学生は辛かったであろう。そんな苦境のなかで、黒帯くんは指導教員の来訪をじっと待っていたのだ。黒帯くんの忍耐力とともに、黒帯くんを精神的に支え続けてくれた同室の南こうせつ君の思いやりに頭が下がった。
青谷の委員会が27日にあったため、わたしの離鳥は28日までずれこんでしまった。もっと早く来てあげなければいけなかったのだ。(続)
- 2008/09/01(月) 00:03:47|
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