松菊里型住居の上屋構造 2007年2月5日、妻木晩田遺跡事務所の体験学習室で、鳥取県主催の2006年度「
課題対応スキル向上事業」が開催された。そのときのテーマは「考古遺跡発掘調査担当職員に対する古建築講座」。実質的には焼失竪穴住居跡から、その上屋構造を復元しようという試みである。当日、24名の文化財主事が講座に参加し、5班に分かれて遺構から1/20スケールの復元模型を制作することになった。その5つの住居遺構のなかに、未知の松菊里型住居が含まれていたのである。

鳥取市の下味野童子山遺跡SI-01は弥生中期中葉の松菊里型住居で、2002年に千代川左岸の丘陵部(標高約40m)でみつかった。竪穴の平面は円形を呈し、復元径は約4.2m、遺構検出面からの深さは最大で58cmを測る。竪穴の際には深さ5cmばかりの壁溝がめぐり、主柱穴は中央ピットの外側にあって、2柱の柱間寸法は1.70m。主柱穴の中間には、松菊里型住居特有の楕円形ピットをともなう。土層断面に柱の痕跡はみとめられず、埋土は焼土ブロックや炭片を多く含む灰黄褐色粘質土であった。竪穴の内部では、掘り下げ当初から、焼土および炭片の出土が目立ち、主柱穴間周辺および北側壁面一帯にかけて厚い焼土に覆われ、柱穴P-02東側付近の床面で東西に軸をもつ板状の炭化材が複数検出された。これは垂木材と推定される。住居の中央には後世の根堀とみられる径2mの円形の撹乱穴もあり、その周辺部で焼土が確認された。北西側壁面は削平されている。さらに、住居の東半で壁面に沿う位置に土圧で潰れた土器8個体分が床面から出土した。以上の出土状況からみて、あきらかに焼失住居であり、土器はある程度元の位置を反映していると考えられる。
また、SI-01の山側の外周行域に弧状の溝SD-01が掘られる。SD-01はSI-01の周堤溝と考えられる。SI-01の竪穴壁からSD-01までの距離は約80cm。溝の残存長6.8m、幅1.3m、深さ40cmを測る。断面は椀状で、埋土からSI-01と同時期の土器片などが出土している。

昨日、江辻遺跡の松菊里型住居平面を使った板付遺跡の復元建物を批判したが、わたし自身、下味野童子山遺跡SI-01の知見を得る以前に、松菊里型住居の復元について検討した経験はない。板付の復元建物については、ただ「煙抜がない」という一点において上屋構造の復元が間違っていると直感したまでのことである。
2007年2月の講座では、下味野童子山遺跡SI-01の上屋構造を男女5人のメンバーで復元していただいた。もちろんわたしは復元に口を挟んだ。松菊里型住居に特有な2本柱を頂点として二つのケツンニ(3脚)を組み、両者の頂部を短い棟木でつないで垂木を扇状にめぐらせるよう指示したのである。模型の出来映えは上々で、会の終了時に「今回の遺構復元では最も学術価値が高い試み」だと講評した。しかし、会の終了後数日して、その復元案に疑問を抱くようになった。下味野童子山遺跡SI-01の平面はほぼ円形を呈しているにも拘わらず、2組のケツンニをベースとする屋根構造は円錐形にならない。垂木尻の軌跡が楕円形を描くのである。ここに平面と構造の不一致が露呈した。復元の考えかたが間違っていることの証にほかならない。
その後、わたしは当時のブログに朱色で以下のように追記している。
追記: 今回はケツンニを2本使って棟をつないだが、平面はほぼ完全な円形を呈しており、2本使うべきかどうかについて考え直していた。おそらく、ケツニンは1つでその頂点は円形平面の中心に位置する。その頂点から竪穴の全周をめぐるように垂木が配列する。これは円錐形テントの構造と同じである。2本の棟持柱は煙出(越屋根)の棟木をうけるために配置されたもので、棟木は円錐構造の頂点と2本の柱で支持されていたのではないか。こういう構造は草屋根には適しているが、土を被せていたとしたら垂木が撓んできたであろう。いちど模型をつくりなおしてみるほかなさそうだ。(2007年2月10日記)

この反省をもとに、研究室4期生の横田研二(けんボー)は、下味野童子山遺跡SI-01の上屋構造を
2007年度卒業研究で再検討した。横田は朝鮮半島の松菊里型住居のなかに2本主柱のないC型(無柱型)が含まれることに着目した。柱のない竪穴住居は日本の縄文・弥生時代にも存在するが、柱がない円形平面の場合、上屋構造は円錐形テントと同類のものとみなさざるをえない。ここで昨日も問題視した、松菊里型住居の類型化の難点が浮かび上がる。李健茂がC型とする無柱型を松菊里型住居に含めてよいものかどうか。これについては議論が分かれるところだが、中央ピットだけの無柱型(C型)がかりに松菊里型と呼べないにしても、2本主柱をもつA型やB型の平面形状に近似する無柱型が存在するという点を無視できるわけではなかろう。
構造の変化を「進化」としてとらえることが許されるならば、原初型としては柱のない円錐形構造の竪穴住居がまずあり、2本主柱は頂部の煙抜となる越屋根を支持するための棟持柱とみなすことが最も合理的な理解といえるのではないだろうか。板付の復元的理解とわたしたちの考えが根本的に異なるのは、板付が2本主柱を構造本体の棟持柱と考えているのに対して、わたしたちは2本主柱を越屋根(煙抜)の棟持柱と考えている点である。
さて、円錐形のテントは北方ユーラシアから北アメリカの狩猟民にひろく活用されており、ベースとなる構造は3脚と4脚の両方がある。今回わたしたちは4脚を採用するほうがよいと判断した。3脚の場合、2本主柱との関係が非対称構造になるのに対して、4脚では対称のサス配列を作りだせるからである。竪穴の中心を対称軸とする4本のサスを構造の中核とし、その周辺に垂木をめぐらした。垂木は出土炭化材にあわせて板垂木とし、横桟(小舞)を通した上で、板の上に茅を横に並べ、小舞の上に茅を縦に葺き、その上に土を被せた。下地となる茅の縦横葺きは妻木晩田遺跡妻木山SI-43の出土状況にならっている。なお、入口の位置については確証はないけれども、地形全体としてみた場合、斜面の下側に設けるほうが雨水処理には便があり、床面の東半壁面近くに土器が集中している点などを斟酌し、南西側に設けることにした。(続)
- 2008/10/04(土) 00:21:00|
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