南谷大山から妻木晩田まで わたしが初めて焼失竪穴住居跡と出会ったのは1992年のことである。鳥取県羽合町(現湯梨浜町)の南谷大山遺跡でみた2棟の焼失竪穴住居跡に大きな衝撃をうけた。床面上に「垂木」と推定される板材や棒材が集中して横たわっており、その上には炭化した茅が「垂木」に直交して堆積していた。おもしろいものだと思った。こういう焼失住居跡を研究すれば、竪穴住居の上屋構造は「想像復元」の域をはるかに超えて「実証的復元」のレベルに近づける。この実証的復元に向けてのチャレンジがなによりわたしを魅了した。ちょうどそのころ勤務先の平城宮跡では朱雀門・東院庭園・第1次大極殿の復元プロジェクトが併行して進んでいたのだが、かすかな情報しかない遺構から複雑きわまりない上屋構造をパッチワークのように「想像復元」する事業そのものに、わたしは多大な不信感を抱いており、その反作用として、焼失竪穴住居跡の実証的復元研究に没頭していくようになったのである。

南谷大山の焼失竪穴住居跡ASI01(弥生時代後期後葉)とBSI20(古墳時代前期前葉)は、主柱よりも内側がよく焼けており、炭化木材は主柱の外側に集中していた。この焼失状況を重視し、当時は梁・桁までを茅葺き下地の土屋根、梁桁より上を茅葺きとする「二段伏屋」式構造に復元したのだが、茅葺き下地にのる土の範囲については未だよく分かっていない。屋根全体にひろがる場合もあれば、屋根の裾側にしか載らない場合もあるだろう。これについては後述する。
その後、1996年に岩手県一戸町の御所野遺跡西区で縄文中期末(約4000年前)の焼失住居群が発見され、調査から施工までの全プロセスに係わった。これについては、すでに
縄文建築シリーズで詳述したとおりである。さらにその後、2000年に鳥取県の妻木晩田遺跡で、日本有数の焼失竪穴住居跡がみつかった。それは妻木山地区のSI-43(弥生後期)である。弥生時代の住居跡として、上部構造の情報を最もよく残す遺構であると断言できる。弥生時代の住居を復元するにあたって、妻木晩田遺跡妻木山SI-43を避けて通ることはできない。


SI-43は隅丸方形の竪穴住居跡である。平面規模は長軸方向(北西-東南)で4.98m、短軸方向(北東-南西)で4.62mを測る。竪穴の床面直上からは、妻木晩田9期の土器片が出土しており、存続年代は弥生時代後期後葉(2世紀後半)頃と推定される。主柱穴の底径は22~30㎝であるが、驚いたことに、柱穴P4上には高さ8㎝、径10~12㎝の炭化した柱材が立っており、その地下部分は空洞化していた。床面の深さは遺構検出面から約40㎝。主柱穴の位置は隅に近く、壁から50㎝ほどしか離れていない。柱間寸法はP1-P2が228㎝、P2-P3が275㎝、P3-P4が252㎝、P4-P1が258㎝を測り、長軸すなわち主軸の北東側があきらかに縮んでいる。一般的に竪穴住居の入口は主軸のどちらか一方にあるとされるが、南西側には壁溝が検出されているので、柱間の短いP1-P2側を入口とみた。中央ピットP5は竪穴の中心ではなく、わずかにP1-P2側に位置する。この配置もまたP1-P2側が入口にあたることの裏付けとなるかもしれない。山陰地方の竪穴住居に特有な中央ピットについては、妻木晩田遺跡では中央ピットから1条もしくは複数の溝が周壁にのびており、さらに周堤を貫いて竪穴の外にまでのびる例が多数検出されている。この溝は床面に滲み出す水分の排出溝とみまなしうるので、中央ピットは水溜の可能性が高いであろう。SI-43ではP5を囲むようにして、赤褐色もしくは暗赤褐色の焼土面が3ヶ所に残る。水溜の周辺に地床炉を配していたということであろう。



炭化材を多く検出したのはP4-P1間である。とりわけP4側では、ほぼ平行に配列された板状の垂木材(幅15-30㎝)が心々距離約25㎝のピッチで並び、それらはP1とP4をつなぐ桁よりも内側にのびている。一方、P3-P4間では、中央東寄りの場所で、2本の垂木材が竪穴の中心方向に斜行して倒れており、葺土層の下では扇状の垂木配列を確認した。P1・P2・P3周辺のコーナー部分でも、やはり扇状の垂木配列がみとめられる。なお、P3の北側に接する材は桁の可能性がある。
P4-P1間では、垂木材を被覆する薄い茅の層を検出している。中央の長い2本の垂木の上面で、茅が水平方向に横たわる状況が鮮明にみとめられ、さらにそのP1側では水平方向の茅の上に、求心方向の茅を確認できる。直交して重層するこの茅列は、大量の焼土を含む分厚い土層の下にくいこんでいる。この土層全体が屋根の葺土と推定されるが、焼土がアメーバー形状の固まりをなして数ヶ所に分散するのは、屋根が焼け落ちる際、崩落土層の反転現象が発生したためと思われる。
以上の情報から屋根の構造が鮮明に読み取れる。土屋根の最下層の下地として、板状の垂木を密に配している。すでに述べたように、平側では平行の垂木配列、妻側および四隅では扇状の垂木配列をとる。垂木は桁をこえて内側にのびるが、煙抜が当然存在したはずだから、棟木まで達していたかどうかはわからない。密に並ぶ板状垂木の上にまず茅束を水平方向に敷き詰め、それと直交する縦方向に茅を葺き流してから、土を被せている。縦方向の茅は、土屋根から沁みてくる水分を周堤方向に流す役割、その下に敷く横方向の茅束は土粒の落下防止の役割を果たしたのだろう。この横方向の茅束が腰折れしないように、板状の垂木を密に配して箱状の構造物を作ったのである。茅を縦横に重ねる土屋根下地の発見は、群馬県中筋遺跡の焼失住居(5世紀)を初例とするが、SI-43はそれに先行する弥生時代後期の例として注目される。

↑妻木晩田遺跡の住居跡にみられる中央ピットと放射状の排水溝(SI-43ではない)
- 2008/10/06(月) 05:12:54|
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