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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

居住の技術 -弥生時代(Ⅵ)

打出模型01


打出遺跡SI01の復元

 焼失住居の遺構解釈と上屋構造の復元について、富山市打出遺跡で出土した焼失住居跡SI01(弥生終末期)を例にとって具体的に述べてみよう。

出土状況: 打出遺跡SI01は4本主柱をもつ隅丸方形の竪穴住居跡である。ただし、北辺が南辺に比べてわずかに短く、南辺では直線状の部分が2.0m弱みとめられるのに対し、北辺は扇状にまるまっている。規模は長軸8.4m、短軸7.6mを測るが、柱筋で比較すると、南側のP06-P09ライン上での竪穴幅が約7.4m、北側のP10-P11ライン上の竪穴幅が8.3mで、あきらかに北辺側がひろくなっている。柱間寸法をみても、棟通りにほぼ平行する桁行方向ではP09-P10とP06-P11が3.75m等間であるのに対し、梁行方向ではP06-P09が2.98m、P10-P11が3.10mを測り、やはり北側がわずかに長い。

ブログSI01種別確定版0109.jpeg 床面積は壁溝内側で44.9㎡。ほぼ全面に地山土と類似した厚さ5㎝の貼床が施されており、壁溝(深さ約15㎝)も攪乱部分をのぞいて全域にめぐる。一方、床面のほぼ中央に楕円形のピットが複数重複してみつかっている。床面のほぼ中央にある複数のピットのうち、P03を排水用の「中央ピット」、P05を炉の痕跡と調査担当者はみている。入口については東辺のほぼ中央外側で、小ピット2基(P13・P14)が下層遺構SI04の床面でみつかっており、これを戸柱の痕跡としているが、竪穴のエッヂに近接しすぎており、深さも4~8㎝と浅いので、戸柱痕跡と断定できるわけではない。今回の復元では、直線部分の長い南辺に入口があったものと仮定した。

打出002床面平面 4本主柱穴には、いずれも柱痕跡が残っており、柱径は140~180㎝に復元される。
 竪穴の深さは、遺構検出面から60cmを測る。調査担当者は旧地表面を遺構検出面プラス10cm程度と想定しているので、旧地表面からみた竪穴の深さは約70cmに復元できる。周堤については、近隣の高岡市下老子笹川遺跡の平地住居跡(弥生後期)などを参考にすると、幅2.5~3.0m、高さは50㎝前後に復元できよう。旧地表面との関係からみて、周堤の外側をめぐる周溝は掘られていなかったと考えられる。

打出03全景

炭化材と炭化茅: SI01は、竪穴内部のほぼ全域に炭化材を残す良質の焼失住居跡であるけれども、4本主柱の内側に炭化材と焼土が少なく、4本主柱の外側で炭化材と炭化茅を多く残す。これは、1)4本主柱より内側に天窓もしくは越屋根状の煙抜が存在していた可能性、2)主柱より内側の屋根に下地としての茅葺が露出していた可能性、のどちらかを示唆するものである。一方、主柱より外側に炭化材・炭化茅が多いのは、そこが土屋根に覆われて、不完全燃焼を強いられた結果とみなせよう。

打出01出土02圧縮 なお、周堤に接する内側の棚上部分とその近くにも建築材は存在したはずだから、ここに炭化材が残っていても不思議ではない。実際、2005年に発掘調査された鳥取県琴浦町箆津の乳母ヶ谷第2遺跡の焼失住居跡(弥生後期)では炭化材と炭化茅を周堤上に残していた。しかし、乳母ヶ谷は例外的に室内で火のまわりが著しく激しかった例と考えられる。大半の焼失住居では、周堤上もしくはその隣接部分に炭化材を残さない。木組の裾部分は炭化せず、木材が腐食して痕跡をとどめなかったものと推定される。
 一方、屋根土の痕跡とみられる焼土については、主柱の外側に集中して10~20㎝ほど堆積しているが、北西隅の周辺のみほとんどみとめられない。これについては、a)北西隅の屋根に土を被せていなかった可能性、b)北西隅に火熱がそれほど及ばなかった可能性の両方が想定される。北西隅では、他の部分よりいくぶん量は少ないが、炭化材はたしかに残っている。したがって、土に覆われていた可能性は十分あり、2004年の段階では b) と解釈した。ただし、大阪府八尾南遺跡(弥生後期)の竪穴住居跡の隅に刻梯子が発見され、隅入の存在が最近あきらかになっており、仮にSI01が隅入であったならば、a)とみることもできよう。これについては、次回以降に検討したい。


打出002垂木茅001圧縮

 炭化材の大半は垂木と考えられる。竪穴のエッヂが直線状の部分では平行配列、北辺などの湾曲エッジ部分では扇形配列とする。これら垂木の大半は板材か丸太半截材であり、角材や丸太材の残存例は少ない。一般的に隅の部分では板垂木が使いにくいので、小径丸太を扇垂木として処理するが、SI01では炭化材が少なく、南東隅に小径木を残す程度である。板垂木は、厚さ0.5~8㎝、幅6~25㎝である。丸太半截材の垂木は厚さ1~6cm、幅5~19cmを測る。垂木のピッチ(隣あう材の中心間距離)はほぼ24㎝以内におさまり、とりわけ4~12㎝が最も多く、きわめて密な配列をなす。ただし扇垂木となる北辺では幅広のピッチもみとめられる。注目したいのは垂木材が上下に重なる部分が あることで、とりわけ四隅の近くで検出された下材はサスの可能性がある。
 梁・桁材と推定される横材も床面に落下している。。母屋桁の可能性のある横材も含まれる。非常に珍しいことである。
 炭化茅は南東隅のほか中央から北西辺付近に多く分布し、床面だけでなく、炭化材(大半が垂木)の直上で膜状に検出された。とくに注目されるのは、半裁材と茅の接合関係である。松江市田和山遺跡の焼失住居跡(弥生中期)では、やはり半裁材を垂木に使っており、その平坦面の上に茅を横方向においた事実があきらかになっているが、打出遺跡SI01では、半裁材の湾曲面に横方向の茅を敷いている。山陰と北陸で、垂木の上下面を反転させていることが判明した。
 打出02茅02圧縮 打出002垂木茅002圧縮 打出模型02圧縮


上屋構造の復元: 屋根とかかわる諸要素を整理すると、)床面直上の炭化材(建築部材) )炭化材を覆う屋根下地層(炭化茅) )炭化材と下地層を覆う焼土層以下の3つの要素の複合性を確認できる。この3つの条件を充足する焼失竪穴住居跡は、屋根を土で覆われていたとみてまず間違いない。ただし、土をどの程度覆っていたのかについては注意を要する。打出遺跡SI01の場合、4本主柱から内側に炭化材・炭化茅・焼土がほとんど残存しないわけだから、この部分は完全燃焼したことになる。それは屋頂部の越屋根(煙出)だけではなく、土屋根の下地である茅葺面が少なからず外気に露出していた可能性を示すものである。焼土の分布範囲からみて、屋根土は越屋根まで達しておらず、越屋根と4本主柱の中間あたりでとまっていたとみるべきであろう。
 屋根の構造は、隅以外の部分を板材および半裁材を垂木として密に配列し、その上にまず茅を横方向、ついで縦方向に葺いてから、土を被せたものと思われる。隅に関しては、おもに小径丸太を扇垂木状にめぐらしてから、茅を横→縦に葺き、土を被せたのであろう。屋根勾配は8/10とした。屋根荷重はサスを通して軸組に伝達する。サスは4隅のほか各辺に2本配し、計12本用いる。

打出図面01桁行断面


  1. 2008/10/10(金) 22:18:41|
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