隅入の構造
八尾南遺跡竪穴建物9では、西南隅に刻梯子が立ったままの状態でみつかった。入口が建物の隅にあった証拠と言ってよいだろう。従来、竪穴住居の復元では、家屋文鏡などの影響からか、妻入とする例が圧倒的に多く、まれに平入に復元される場合もあった。わたし自身、縄文住居の平面モデルを再構成するにあたって、埋甕の位置や柄鏡型住居の門道の位置を重視し、一方の妻側の中央に入口を配することを通例としてきた。これに対して、福島市宮畑遺跡の焼失住居(縄文中期)の復元模型制作時に調査担当者から隅入の可能性を強く示唆されたのだが、多角形柱配列の隅にはサスを配すべきという先入観が強く、隅入の復元を放棄した。

一方、鳥取県では、古墳時代にくだるけれども、倉吉市の上神猫山遺跡(↑左)で隅入の門道が2方向で確認されており、さらに近年、同じ倉吉市の
クズマ遺跡で地盤を固くたたき締めた門道を南隅にともなう住居跡(↑中:遺構図、↑右:復元平面図)が発見された。古墳時代後期の5号住居跡(C2期)である。平面はやや東西に短い隅丸方形を呈する。住居の床面は建替にともない貼床して整えている。貼床層は最大で16cm程度の厚みがある。貼床層の断面観察では大きく上下2層に分けられる。最終時(C2期)の床面は削平されていたが、壁溝は残っている。C2期の床面規模は南北5.8m、東西5.4m、壁高は住居西辺で最大1.5mもある。主柱穴は4本で柱間は、4辺とも2m前後を測る。
なお、猫山遺跡・クズマ遺跡の隅入住居跡に共通してみられる特徴として、導線の方向を指摘できる。門道が隅に設けられるとはいえ、門道中心線は隅の柱を向いておらず、その延長線は妻側柱間の中点に達する。
復元にあたって、まずケツンニ構造が思い浮かんだ。ケツンニを用いれば、隅にサスをおく必要はないので、隅入の構造が容易に復元できる。しかし、この試みは失敗した。4本主柱の配列がほぼ正方形をなすため桁行方向の寸法が短く、両側に3脚を組めないのである。そこで、考え方を改めた。建築史学における竪穴住居の研究史上重要な役割を果たした『鉄山秘書』高殿の図(↓)を参照することにしたのである。図に描かれた高殿(たたら)は梁・桁の上下で構造を分離している。下層は垂木を扇状にめぐらせるのに対して、上層は梁・桁上にケツンニ風の三脚とオダチを2組立てて棟木を支え、その上に垂木をわたして切妻の屋根を作っている。そして、なにより注目したいのは、隅に鳥居状の入口を設けていることである。すなわち、梁・桁の上下で構造を2分割することによって隅方向からの出入りを実現している。
クズマ遺跡5号住居の復元にあたっては、『鉄山秘書』高殿の構造をほぼそのまま採用し、ただ下層屋根を土被覆、上層屋根を茅葺きとして変化をつけた。この上下分離構造を採用すれば、縄文時代であろうが、弥生時代であろうが、隅入の構造を復元することは可能である。しかし、ひとつの障壁が存在する。一部の建築史研究者は、梁・桁上にサスをのせる構法の成立を近世以降とみている。中世以前、接地するサスは存在しても、梁・桁にサスを突き刺す構造は存在しなかったという見方である。しかしながら、奈良時代に豕叉首が用いられたのはあきらかであり、また、梁に斜めの穴をあける部材が古墳時代後期~奈良時代で確認されているから、少なくとも古墳時代後期のクズマ遺跡5号住居に高殿の構法を採用しても大きな問題はないであろう。なお、製鉄施設としての高殿の利用も古墳時代まで遡ると考えられている。
ただし、縄文~弥生時代となると、どうであろうか。現状では、梁・桁上にサスやケツンニをおく構法を復元にあたって気楽に使える時代ではないとわたしは考えている。やはり、サスやケツンニは接地しつつ棟木に達していた可能性が高いであろう。とすれば、隅入の構造を実現するためには、隅にサスを配する構造ではなく、ケツンニ型の構造が有効だと言ってよいと思われる。

↑クズマ遺跡5号住居復元模型の制作プロセス
- 2008/10/19(日) 13:37:22|
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