三徳山三仏寺建造物の構造形式と建築年代
11月17日の
建築ツアーに参加し、私は三徳山の投入堂とそこに至るまでの多くの文化財建造物に興味を持ち、その構造形式と建築年代について調べようと考えた。
三徳山三佛寺は三徳山全体が境内とされており、投入堂の標高は900m、登山道入口から投入堂までの標高差は200mである。三徳山自体が国の「名勝」及び「史跡」に指定されており、国宝である投入堂(蔵王堂・愛染堂)、国の重要文化財である納経堂・地蔵堂・文殊堂、鳥取県指定の保護文化財として本堂・不動堂・元結掛堂・観音堂・鐘楼堂(以上 三徳山三佛寺建造物群)があり、さらに、未指定文化財として香楼院・輪光院・正善院・皆成院などが存在する。
本堂は現在、修復工事が行われていて、仮の本堂が建っている。こけら葺の向拝1間唐破風付きの宝形造で桁行5間半、梁間5間である。江戸時代後期の建立と推定され、天保十年(1839)に再建された。今回の解体修理にともなう調査の結果、屋根が建立当初「とくさ(木賊)」葺であることが判明している。
板葺きの屋根は葺板の厚さによって呼び名が異なる。「こけら葺」は板葺の中でも最も薄い厚さ2~3ミリの板を使う手法で、板葺といえばこけら葺といわれるほど日本の文化財建造物によく用いられている。本堂に用いられていた「とくさ葺」は厚さがこけら葺のおよそ2倍の6ミリのものが使われている。とくさ葺は江戸時代まで社寺建築に用いられたが、次第にこけら葺や銅板葺へと移行していった。宝形造は寄棟造の特異なものであり、屋根がすべて三角形になって中央の一点に寄せられた造りのものをいう。宝形造の代表的な建築は法隆寺の夢殿である。八角形の宝形造だがこれも三角形が中央の一点に寄せられている。


登山道を登っていくと文殊堂、そこから100mほどで地蔵堂を見ることができる。この二つの建築はいずれも室町時代後期のものと推定されており、文殊堂・地蔵堂ともに桁行三間、梁間四間である。いずれも入母屋造だが、文殊堂は背面軒唐破風で、地蔵堂は背面妻中央に軒唐破風がついている。そして二つの建築は「懸造」である。懸造は別名「舞台造」とも呼ばれ、京都の清水寺がその代表である。文殊堂・地蔵堂が清水寺と異なる点は、崖に建てられているのにもかかわらず勾欄がないことである。二つの建築に共通点が多いのは文殊堂が地蔵堂を模して少し後に建てられたからだと考えられている。
地蔵堂からもう少し登ると鐘楼堂がある。鐘楼堂は鎌倉時代の創建と推定され、こけら葺の切妻造である。大正14(1925)年の修理で大半の部材が取り替えられたことが惜しまれる。
そこから「馬の背」と呼ばれる難所を過ぎると。国の重要文化財「納経堂」があらわれる。こけら葺の春日造で、1082年に伐採された材が使われていることがわかっている。平安時代後期の「春日造」として報道された有名な建物である。春日造とは、春日大社に代表される神社本殿の様式で、切妻造の妻入で屋根が左右に反り、前側にも庇が付けられたものを言う。
そして、建物の半分が洞窟内に建てられた不動堂の裏側を通り抜けると元結掛堂がある。庇に縁をつけるが、階段は省略されている。この手法は納経堂も同様に用いられている。不動堂・元結掛堂、いずれも納経堂と同様、こけら葺の春日造で、江戸時代に建築と推定されている。そこから少し先にある不動堂はこけら葺の春日造で庇には縁を設け、勾欄をめぐらしている。江戸時代末期のものと推定されている。

こうしてようやく奥院投入堂に到着できる。文殊堂・地蔵堂と同様に懸造で建てられており、桁行一間、梁間二間の桧皮葺流造である。桧皮葺とはヒノキの樹皮を用いて葺かれたものを言う。日本独自の優雅な屋根葺き手法である。流造とは切妻造の平入で屋根が左右に反り、前側の庇も身舎の屋根が続いて、「へ」の字になっている屋根形式で、日本の神社本殿のもっとも代表的な様式として知られている。このように本体部分は流造だが、脇の庇と隅に落屋根をともない、屋根全体の形状は年中行事絵巻に描かれた平安宮紫宸殿とよく似た屋根形式としても注目されている。
以上が三徳山三仏寺の文化財建築である。 (環境デザイン学科2年 Y-TN )
参考文献 『三徳山とその周辺』鳥取県立博物館、『鳥取県の近世社寺建築』鳥取県教育委員会、『鳥取県の歴史散歩』山川出版社、『鳥取県の山』山と渓谷社、『三徳山の歴史と美術』第17回国民文化祭三朝町実行委員会、『週刊日本遺産 三徳山 大山』朝日新聞社
投入堂はどうやってあの場所に建てたのか?
三仏寺奥院「投入堂」は、切り立った断崖に建っています。しかし、あのような場所にどのような方法で造られたのでしょうか。
伝説では、706年に修験道の開祖、円小角(円行者)が仏教に縁のあるところに落ちるようにと蓮の花びらを三枚投げたところ、そのうちの一枚が三徳山のあの岩窟に落ち、そこに円小角が法力でお堂を投入れたと言い、これが投入堂の名前の由来にもなっています。しかし、この伝説はあまりにも現実離れしています。しかし、この伝説以外に創建に係わる資料は全く残っていません。原因には、三仏寺が、何度も戦火に遭い全焼してしまっている事が考えられます。
中国山西省に投入堂と似た「懸空寺」という懸造の寺院があります。投入堂と同じように切り立った断崖に建っています。懸空寺も何度も全焼しているのですが、構造自体は変わっていないそうです。懸空寺では、まず断崖に穴を開けそこに梁を差込みそれを土台として、建物全体を支える構造になっています。そして、一部のみデコボコした岩肌を利用してそのまま土台として利用しています。しかし、投入堂では梁は断崖に差し込まれていないし、岩肌をそのまま利用しているわけでもありません。ですが、懸空寺が建てられたのが約1400年前といわれており、投入堂が建てられたのが平安時代後期といわれています。さらに、いまの投入堂を建てたといわれているのが中国山西省五台山に留学していた慈覚大志円仁なので、少なからず投入堂の建造にも影響を与えているのではないかと思います。

前の文章で、投入堂が建てられたのが平安時代後期と書きましたが、もっと前に身舎のみ建てられ、縁と廂は後から付けられたのではないかという説もあります。以下がその理由です。
・建物左側面は一見入母屋造に見えるのですが、隅木が無く、切妻の部分に廂を付加
したのではないか。
・反りの無い桁が途中から軒裏に埋まりこんでいるのは、最初からあるならば不自然。
・前面の屋根の勾配が背面の屋根より緩やかになっている(廂を後から付けたため)
これらの理由からもともとは切妻造りのお堂でそれ例外の部分は後から付けられたものだと考えられるようです。しかし、後から増築したのであればどこかに芸術的に綻びが生まれるのではないかという反対意見もあります。また、投入堂の建っている岸壁には現在柱のある場所のほかにも柱跡があり、今の投入堂とは違う形をしていたのか、もしかすると、足場を組んだ跡なのかもしれません。

最後にこれまで調べたことと、自分の考えを交えながら建てた方法について書いていきたいと思います。あの場所にお堂を建てるには足場が必要だったはずです。足場の柱は、懸空寺の梁と同じように断崖に穴を掘り、そこに材料を差し込んでいったのではないかと考えられます。現在残っている、無数の柱跡はその時のものではないかと考えました。足場を造ったあと、同様の方法で身舎を造り蔵王権現を安置し、身舎の周囲に柱を建て縁を作り廂や屋根を付けて加えていったのではないでしょ
うか。建物向かって左側にある愛染堂もこの一連の作業の中で造られたのでしょう。一度に建てたにしては技術的に不可解な点があることについては『眺めるお堂』として建てられものだからではないかと思います。眺めたときに美しく見えるように細かい計算をしていった結果あのような形になったのではないかと思います。
どのような方法で建てたにしろ、あのような険しい場所にお堂を建てることは非常に危険で、気の遠くなるような作業であったことが予想されます。しかしそれは、三徳山がそれだけ信仰の篤い山だったということではないでしょうか。いずれにしても、建てた人びとの仏教にたいする強い熱意と信仰の深さを感じます。(環境デザイン学科2年M.J )
【参考文献】
鳥取県立博物館『鳥取県の自然と歴史4 三徳山とその周辺』、池本喜巳『三徳山 三佛寺』、高木啓太郎 『三徳山 三仏寺』 、米田範真『三徳山』、高見蛟龍『断崖の寺 招来への道』
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=63591
http://harropage.blog39.fc2.com/blog-entry-794.html
http://ichibata.jp/gyouji_houkoku/20080630_fudasan/20080630_fudasan_0035.jpg
http://ameblo.jp/tonton3/image-10053228444-10035579019.html
- 2008/12/09(火) 12:44:25|
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コメント:1
二人ともよく書けてますね。懸空寺には2度行ったかな。そういえば、五台山に近いよね。円仁を介して、懸空寺と三仏寺が結びつく、か???
- 2008/12/09(火) 20:45:20 |
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