

住居復元に関わるようになってから、「せめて一度だけでも遺跡で焼失住居跡を見てみたい」と感じていました。そんなところに、兵庫県赤穂市の有年牟礼(うねむれ)遺跡の焼失住居跡(弥生中期後半)の調査指導依頼が先生にあり、21日に学生4名も同行させていただくことになりました。院生のホカノさん以外は3年生(狩人・ガード・黒帯)で、焼失住居跡を生で見るのは初めてでした。
実際に遺構をみると、サスと思われる斜材が求心方向に倒れ込んでいます。その他の炭化材も面的にひろがっているようで、じつは繊維方向(↓左)にもある程度の規則が読み取れそうです。先生は、最初から最後まで「繊維方向」の精査を訴えられていました。このほか、6本主柱穴の跡(↓中)がみえました。近くてみると見難いのですが、トレンチの上にあがって遠目でみると、有機物が粘土化した円形の痕跡が分かりました。興味深いのは、サス状の材が柱穴の位置ではなく、柱穴と柱穴の中間に存在したことです。一方、床と壁の境にある壁溝(暗渠)の痕跡はAさんが線をひくのですが、私たちにはなかなか見分けることができませんでした(↓右)
さて、炭化材は真ん中寄りに残っていて、周りのほうには、ほとんど見ることができません。これは、壁に近い部分が生木の状態で腐り、土に還ったためだと先生は言いました。こういう焼け方をするのは土が屋頂まで覆っていて、完全燃焼する時間が非常に短い例だとも聞きました。一般的には、中央部分がよく焼けて、炭化材は壁際でよく残るのだそうです。こういう焼け方をする建物では、土が屋頂まで達していなかった可能性が高いとのことです。今回の焼失住居では、焼土塊も多くはなかったですが、これもまた焼け方が激しくなかったことを物語っているようです。中央部分がよく焼けている建物では、焼土も多くなるそうです。

普段、図面や写真とにらめっこしながら復元に取り組んでいる私にとっては部材をイメージしやすくなったし、焼け方なども勉強になりました。なにより、教育委員会のAさんに調査指導する先生の横で話を聞く私。知識の乏しい未熟者の私にとっては、先生の近くにいるだけで有意義な知識が蓄えられる気がして、とても楽しく思えました。私の関わっているオホーツク文化住居は葺き方などが違い、焼けるのが早く、炭化材があまり残っていません。屋根は白樺の樹皮で覆われていたと推定しています。構造によって焼け方が異なってくるということを改めて感じました。(黒帯)
追記 22日に新しい調査成果が送信されてきた。左写真の赤丸は柱穴と中央ピットを示している。サス状の求心方向の材が柱穴と柱穴の中間位置にあることにはとくに注目されたい。縄文系の多角形主穴はサスの真下にあって、テント状のサス(力垂木)を支えるために出現したものと推定することも可能だが、この調査例をみる限り、主柱間にわたす梁状の横材でサスを支えたことになる。一方、右写真は炭化材上部の焼土の断ち割り。あきらかに地山系粘土が焼けたものである。

このように焼土が少ないのは、竪穴中央部に炭化材が多く残ることと相関性がある。焼け方が弱く、中央部のみ炭化したので、その周辺のごく一部しか屋根被覆土が焼土化しなかったのである。これと対照的なのが宮畑遺跡(縄文中期末)で、炭化材をほとんど残さないほどよく焼けており、竪穴の全面に厚さ25~40㎝の赤焼土が堆積する。これは粘土が高温で焼けたために土屋根が一定時間、ドーム状に自立していたことを示している。すなわち、土屋根住居の焼け方には以下の3段階が認められる。
1.有年牟礼遺跡のように、中央部に炭化材が集中して残り、周辺部に炭化材
は存在しない。焼土も少ない。これは不完全燃焼の典型。壁際の材は炭化
すらせず、土壌化した。
2.中央部に炭化材が少ない反面、焼土が集中。炭化材は壁際に残る。越屋根
の周辺は土で覆われていなかった可能性が高い。この焼け方の場合でも、
周堤上には炭化材を残さないのが一般的だが、
箆津乳母ヶ谷第2遺跡SI3・SI4 のように周堤上に炭化材を残す遺構も例外的に存在する。ただし、
この場合、壁から内側の炭化材はやや少なく、3のような赤焼土堆積の
範囲がひろくなる。
3.竪穴の全面で炭化材は少ないが、分厚い焼土が床面にひろく堆積。通風が
よく、完全燃焼しており、地山系粘土の屋根被覆土が燃焼により硬化し、
ドーム状に自立していた。
屋根を土で覆う目的の第一は「防火」である。草葺きや樹皮葺きの竪穴住居は失火で燃えやすい。燃えれば、またたくまに「全焼」である。これを防ぐために草や樹皮の上に土を被せた。土を被せると、屋根材だけでなく、室内全体の湿気が高くなって、失火による火災が起こりにくくなる。その反面、湿気によって、屋根材や木材は腐りやすくなるので、一定期間を経て、住居の廃棄もしくは焼却を余儀なくされる。建物の解体による部材の再利用は実践しにくい。廃棄の場合、土屋根の住居は自然に崩落し土壌化していくが、それには時間がかかる。そこで、饅頭状の高まりを平地化するため意図的に住居を焼いた。その遺構が「焼失住居」として全国各地の遺跡で発見されるのである。(A)

遺跡を離れて西に向かい、半時間ほどで龍野に着きました。醤油の町として知られる龍野には、町家や寺、そして醸造蔵が軒を連ねる町並とても趣があって素敵でした。有年牟礼遺跡についたのがお昼前で2時間ばかり焼失住居を視察していたので、お腹が減っていました。ひととおり町並みを見学し、遅めの昼食を「エデンの東」という町屋喫茶店でいただきました。とてももお洒落で、トイレまで飛石を歩いていく配置も面白かったです。このような家に住めたらと少し憧れました。
山陰とは違い、兵庫はとても天気が晴れやかでした。この気候は本当に羨ましいですね! 今回はとても良い体験ができました。(黒帯)


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- 2008/12/22(月) 12:44:17|
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