院生が奈良で修士論文の講評を受けた日曜日、兄の家に親族が集結していた。父の百日法要だったのである。講評と討論が長引いて、わたしは読経に間に合わず、兄の家に着いた途端にグロッキー。炬燵に足を突っ込み、そのまま仰向けになって眠りに落ちた。
公聴会前夜からの数日間、それだけきつかったのだ(こう書くと、キム姉に「
まだ言ってる」と思われるかもしれないけれども、わたしも歳なんですよ、ほんと・・・無理の効かない体になってしまいました)。
父の写真は葬儀の日から変わっていない。なんとも言えない満ち足りた笑顔で弔問客を迎え、勇気づけてくれる。翌日、大学に出ると、県内のご老人から電話があった。父が教師をしていたときの教え子さんである。彼岸の納骨までに教え子数名で位牌と遺骨を拝みに行きたいと言われるので、もちろん大歓迎だとお返事した。

父の葬儀で、わたしは家紋を知った。なんとなく「三つ巴」という記憶があったのだが、正確には「結び巴」であった。巴紋と言えば、わたしたちの業界ではただちに軒丸瓦が思い起こされる。とりわけ「二つ巴」は
陰陽太極図の変形だとばかり思っていたのだが、鞆絵(ともえ)が語源で、弓を射る時に使う鞆を図案化したものとする意見も有力らしい。また、水が渦を巻くさまとも解釈され、それが「防火」の象徴として軒瓦に使われたとすれば納得がいかないこともない。
「結び巴」紋様の起源については、よく分からないが、写真にみるように、なかなか風格のあるデザインなので、今後、名刺や研究室封筒のロゴとして使おうという着想が増幅しつつある。
百日法要の翌日、奈良の
複数の経路から訃報が届いた。藤原宮跡発掘調査部長を務められた牛川喜幸さん(庭園史)の逝去の知らせである。まだ73歳。研究所時代は可愛がっていただいた。退官後、長岡造形大から京都橘大に籍を移され、西大寺にお住いだったので、何年か前に近鉄のプラットフォームでお目にかかったことがある。「飲みにいこうか」と誘われているような笑顔が記憶に残っている。
江口さんほどではないけれども、やはり相当な飲んべえだったので、以下のような弔電を送った。
ご逝去の報に接し、心から哀悼の意を捧げます。
ユングの臨死体験を読むと、ガガーリンのはるか以前にユングは
宇宙に飛び、「地球は青かった」という感想を述べたそうですね。
牛川さんはこれから4次元の時空を飛びまわって、
どこかの星でまた美酒を見つけ出し、たぶん伊東さんあたりと
ぐびぐびやられることと存じます。まもなく何名か
駆けつけますので、少々お待ちください。
外はまた雪が舞っている。
- 2009/02/18(水) 00:05:09|
- 未分類|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0