ルムレ村の民族誌(上)
チャンドラコットから下る林道がY字に枝分かれする三叉路を左に折れると、骨董品のような艶光のする石畳の道がのびている。しばらく進むと、上下の段畑でサンドイッチ状に挟まれた石壁・石屋根の民家集落が視界に納まり、まもなくその内部にわたしたちは入り込んでいった。
上りはつらかったトレッキングが、一転、極楽に変わった。苦しさは微塵も感じない。それは重力に逆らうことのない下り道だから、という理由にもよるのだろうが、そこに懐かしいの自分を発見したからだ。
京都の大学にいた4年間、わたしは建築学科にいることをずっと後悔していた。理学部を志望していたはずなのに、6歳年上の兄が何気なく口から漏らした「理学部なんか行っても就職はない。行くなら工学部」というアドバイスに惑わされた。兄が悪いわけではない。惑わされた自分が悪いのだ。工学部が向いていないことぐらい百も承知していたはずなのに、「建築」には芸術の匂いがする。これに騙されてしまった。入学してまもなく文学部への転学を考えたが、入試の点が思いの外よくなく、叶わなかった。そのまま4年が過ぎてしまい、時は流れて、いま「建築」を生業にしているけれども、「建築を専門にするのではなかった」という思いはずっと消えない。できれば自分の人生を18歳にリセットしたいとしばしば思う。

転機が訪れたのは修士課程1年次の夏。南太平洋ミクロネシアのトラック環礁で2ヶ月間のフィールドワークをほぼ一人でおこなうことになった。トルという島の頂に500年ばかり前の山城跡が残っていて、その整備にともない伝統的な集会所を復元建設するという計画がもちあがった。その記録をとってこい、と教官に命じられた。これがわたしの研究人生における処女航海であり、不思議なことに、その後の方向を決定づける「民族学」と「考古学」という二つの要素が含まれている。もっとも、後者については、好きな学問分野であったわけではない。平城宮で14年間発掘調査に携わったけれども「楽しい」と感じたことはほとんどなく、発掘調査の技術に至っては下手くそを絵に描いたようなもので、こういう自分が各地の遺跡調査の指導をしていることをとても恥ずかしく思っている。
だから再び宣言します。しばらく遺跡の調査や整備に係わる仕事を控えますので。とくに「復元」については慎重に構えざるをえません。以前からそうなんだけど、復元「研究」を否定するつもりはないけれども、復元「事業」に係わる自分にしばしば嫌悪を覚えるので、少しく距離をおきたいと。しばらくわたしに時間をください。


もうひとつ付け加えておくと、わたしの正真正銘の専門分野は「建築史」ではない。日本建築史でもないし、中国建築史でもない。「民族建築」がわたしの専門分野である。「建築史」と「民族建築」はいったい何がちがうのか。前者は時間軸とモノを重視するのに対して、後者はいわゆる民族誌的「現在」を対象とし、モノの背後にある「知識」を記述するものである。
B.マリノフスキーやE.プリチャードの仕事を思い起こしていただければよいだろう。辞書もない未開民族の地に入り、何年もそこに滞在して言葉を覚え、かれらの文化を記述していく。ここにいう「文化」とはモノではない。モノの背後にある「知識」の総体である。「民族誌」を書くという作業は、すなわち、この「知識」の総体たる文化を記述することにほかならない。こういう仕事にあこがれていた。やはり理学部か農学部が向いていたのだ。「辺境」にある「未開」社会は豊かな生態系を背景に素朴な農耕や遊牧や狩猟を生業としている。生物学・生態学や農学の知識が必要不可欠であり、これに言語学の基礎が伴えばなおよいだろう。しかし、わたしの専門は「建築」だ。だから、「建築」というモノを通して文化を見通す、というスタンスをとるしかない。そういう学問領域が「民族建築」なのだけれども、残念なことに、未だほとんど認知されていない分野だという自覚はもちろんある。
- 2009/03/17(火) 17:59:05|
- 文化史・民族学|
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