摩尼寺の建築と法界場 7月3日(金)のゼミは、計11名で樗谿公園から鳥取市覚寺にある摩尼寺まで中国自然歩道を通っていきました。山道歩きについては黒帯君がレポートしてくれたので、今回は摩尼寺について述べたいと思います。
山道を歩いて摩尼寺に着いたのが17時15分。じつに2時間15分におよぶトレッキングでした。まずは全員で記念撮影をして、早速摩尼寺へと続く長い階段を上がりました。中段まで上ると、仁王門がが威容をあらわしました。隠岐島前の焼火(たくひ)神社から約400年前に移築してきたと伝わる三間一戸(初重扉なし)入母屋造の楼門です。摩尼寺仁王門は県指定保護文化財となっています。
仁王門の組物は初重が出三斗を詰組にしていますが、頭貫上の天のりで台輪を使っていません。対して、二重は出組と一段派手にしており、台輪を用いているのに詰組にせず、中備に蟇股をおいています。その蟇股には天台宗を象徴する呪具「輪法」が彫刻されていました。


仁王門を過ぎると、さらに石段が続きます。長い階段を上って左に折れると山門があり、その向こうに摩尼寺の本堂が見えます。ここで本堂や山門を見ながら教授から学生たちにミニレクチャー。講義でも学んだ組物などについて、実物を見ながら説明を受けました。
本堂は正面三間、側面四間で、屋根正面には千鳥破風がつき、さらに向拝に軒唐破風をつける宮殿(くうでん)タイプのは入母屋造です。組物は向拝が出三斗(三斗組)、本堂が出組となっています。巻斗には皿斗がついて大仏様風にみせていますが、教授によると、皿斗は高さ調節の役割を担っているそうです。
山門は切妻造の四脚門(棟門の変形)で、柱をつなぐ桁の上に出三斗が、控柱をつなぐ桁の上に大斗と肘木が乗っています。こちらは大斗・巻斗の両方に皿斗をつけていて、両方の高さをうまく調節しています。そして、その上にさらに縦横に材をわたし大瓶束をのせて、二本の柱と控柱との中間にある棟木を支えています。
『鳥取県の近世社寺建築』によると、本堂の擬宝珠銘には万延元年(1860)とあり、様式的にも19世紀中ごろとこと。教授も建築彫刻や絵様をじろじろ眺められ、幕末~明治初の作だろうとおっしゃっていました。


境内には他に鐘楼や閻魔堂、善光寺如来堂などの建物があります。この善光寺如来堂は、長野県にある善光寺の分身如来を明治45年に勧請して、境内に祀ったものです。鐘楼や閻魔堂などからは視界が開けていて、緑の山並みが広がっていました。ここで軽いお弁当を持ってきていた人たちは、閻魔堂の裏に座って景色を眺めながらご飯を食べました。
善光寺如来堂をさらに奥にいくと、たくさんのお地蔵様がずらっと並んでいました。中には苔が生えて顔の表情のように見えるお地蔵様もいました。そこから奥に行く道があり、摩尼山の頂上付近まで行けるそうです。
そもそも、摩尼山は古来より信仰の対象として崇められていました。そして、摩尼寺は慈覚大師円仁が834年ごろに開山したと伝える寺院ですが、最初は摩尼山の山頂付近に開かれたそうです。その後中腹に遷移しましたが、豊臣秀吉の焼き討ちにあって荒廃していました。それを池田光仲と光政が江戸時代初期に現在の場所、摩尼山の山すそに再建したとのことです。
また、摩尼寺は三朝町の三佛寺や大山町の大山寺とともに、山陰における天台宗の拠点のひとつでもあるとのことです。この前の発表の時代の分類でいうと、摩尼寺は円仁が唐に行く前に開山した寺院ということになります。

お地蔵様がたくさんいるところを法界場と呼び、そこから数分で見晴台、さらに30分ほどで奥の院や立岩という摩尼山の頂上付近まで行けます。立岩は帝釈天が降臨したという伝説もあり、鐘楼や山祖堂跡でもあるようです。また、奥の院は洞穴になっているとのことです。
しかし、今回は時間がなくて行くことはできませんでした。慈覚大師円仁は山頂付近にお寺を開いたとのことなので、もう一度摩尼寺に行って奥の院まで足を伸ばし、円仁の関わったであろう風景を自分の目でみてみたいと思いました。
最後に、遅くまで見学をさせていただいた摩尼寺の方にこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。(部長)
- 2009/07/10(金) 00:12:11|
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