樗谿から摩尼寺への道 慈覚大師円仁は鳥取市にある摩尼山の山頂付近に摩尼寺を開いたと伝承されています。いまの摩尼寺は摩尼山の山裾に境内を構えているので、当初の位置とは異なっていますが、3日のゼミで樗谿(おうちだに)から摩尼寺へとつづく中国自然歩道のコース約7kmをトレッキングすることになりました。簡単な地図は見つけることができたものの、詳しい道のりは判断できなかったため、現地の標識に頼らざるをえない状況になりました。しかし、この標識が新旧2種並立しており、その情報に私たちは惑わされてしまうのです。
樗谿から太閤々平までは自然歩道が舗装されており、森林浴を楽しみつつ3年生はインターンシツプについて教授と相談しながら歩いたり、ときおりスロージョギングしたり、と余裕がありました。太閤々平に着いたのが4時すぎ。案内板をみると、さらに摩尼寺まで3.5㎞も距離があることが分かりました。

ここで、黒猫君とTO.YOさんが脱落。7時からバイトが入っているため、トレッキングで摩尼寺に向かい帰ってくるとしたら、どんなに早くても樗谿に戻るのは7時半ころになるだろうと推定されたからです。二人は、名残惜しそうにみえて、結構うれしそうに、引き返していきました。太閤々平では皆ミルキーで糖分を摂取し、疲れを癒しました。そして、ここからが自然歩道の本番。一気に急な山道になり、キツさは増すばかり。覚悟はしてましたが、これほどハードだとは思っていなかった・・・。前日の雨にぬかるんだ山道に苦戦しながら、アシガル君と私は、つぶやき合いました。
途中、水の流れに遮られた道、丸太に傷をつけただけの一本橋(これはちょっと怖かった)があり、なにより急傾斜の階段路が長く続くので、みんなこの丸太で縁を土留めした階段をのぼって帰るのか、という恐怖を感じていたはずです。教授もこの階段路あたりで、往復は不可能だと判断されたようです。日は暮れてきたし、小雨も降ってきたからです。
それにしても。摩尼寺という同じ目的地をめざしているのに、異なる距離が表示してある新旧2種類の看板には翻弄されました。距離が長くなったり短くなったり、どうなってるだんだって感じです。


ちょうど、私は円仁の『入唐求法巡礼行記』を読んだばかりで、円仁が五台山目指してさまざまな障害を乗り越えて巡礼を進めてきたことのスゴさを思い知らされたばかりでした。円仁のつらさにくらべたら、この山道はたいしたことないとは思うのですが、実際に私はヘタっていました。だから、円仁の足跡が信じられないという気持ちで一杯になりました。

最近、教授が冗談で「円仁みたいに中国で九年間修行してこいよ」とよくおっしゃいます。とてもじゃないけどムリですね。歩き続けて二時間過ぎたところで、何とか摩尼寺に着きました。時計をみると、5時15分。そこから、三百段の石段を杖つきながら登り、5時半に境内に着きました。江戸時代初期に山裾に再建されたからまだましで、円仁が開創したころはもっと遠く、山頂までの険しい道だったのだろうなと、当時に想いをめぐらせて考えました。
6時すぎにタクオさんとアシガル君が車で迎えにきてくれました。二人はタクシーに乗って樗谿に戻り、マイカーを運転してきてくれたのです。小雨の夕闇のなかで、もしあの山林の道を樗谿まで歩いて帰ったら、到着時刻は早くても8時半になっていたでしょう。
初めて見る摩尼寺が研究でのフィールドワークの第一歩になりました。摩尼寺の建築については部長さんがアップしてくれます。研究を充実したものにするために、これからも、たくさんの「円仁の風景」を目に焼き付けたいと思っています。(黒帯)
- 2009/07/09(木) 00:15:36|
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