摩尼寺「奥の院」のヒエロファニー 10日のゼミは、先週に引き続き摩尼寺を訪問しました。摩尼寺の仁王門・本堂から山道をアップダウンし「奥の院」までトレッキングしたのです。善光寺如来堂のすぐ裏側の地蔵堂・法界場から先が摩尼寺「奥の院」へのコースで、山の頂にある「賽の河原」を経て、その中腹にある奥の院まで登る計画です。
スタート地点の地蔵堂・法界場には、宝暦四年の宝篋印塔や文化十四年の銘が刻まれた石仏などが多数あり、教授は「建築より文化財価値が高いんじゃないかなぁ」とおっしゃっていました。

山道を登り始めてから、ほど近いところに小さな六角堂と、六地蔵が見えてきます。六角堂のような正多角形の平屋建物は円堂とも呼ばれ、インドのストゥーパを木造建築で表現しようとしたものだと教授は解説されました。この六角堂は大師堂とも呼ばれ、ガイドブックによると、弘法大師空海の小さな像が安置してあるそうです。天台宗にとって、というか、最澄にとって最大のライバルであった空海を天台宗ゆかりの山で祀っていることには驚きを禁じ得ません。おそらく、敵対関係が薄れて「密教」とひとくくりにされるようなった江戸時代か明治時代に作られたものでしょう。
しばらく先に行くと、急に視野が開けて、見晴らしのよい展望台に出ます。ここに立つと砂丘や、ラッキョウ畑、美しい日本海が一望できて、皆ほんの少しだけ疲労がやわらいでいるようでした。

「賽の河原」にいたる山道の2ヶ所で観音石仏群を発見しました。文化年間(1810年前後)の銘をもつ石仏が多く、西国札所?の番付らしきものと寺院の名が刻印されています。清水寺や長谷寺など超有名な寺が名を連ねています。いったい摩尼寺とどういう関係にあるのか、調べてみる必要がありそうです。
地蔵堂から山道を歩いて約40分経ったでしょうか、ようやく「賽の河原」に到着しました(いちばん上の写真)。ここはひろびろとした場所ですが、石仏群のすぐ後ろにある巨大な岩が存在感を放っています。これは「立岩」と呼ばれ、湖山の里の産見長者夫婦が、突然、姿の見えなくなった娘の行方を捜してここまで来たとき、帝釈天の姿になって降りてきたのがこの岩の上と伝えられており、そのときに娘が帝釈天の化身であったことを喜び、親子の別れをしたのがこの場所で、「賽の河原」という名はここからつけられたのではないかと考えられています。果たしてこれほどの大きな岩はどのように形成されたのでしょうか。突出したのか、堆積したのか、摩尼山についての本を読んでも見つけられなかったため、不思議でなりません。

↑奥の院の岩窟・岩陰はスリランカの初期仏教遺跡を彷彿とさせる。

「賽の河原」を後にして、いよいよ「奥の院」に向かいます。ここからは、山道もより一層険しくなり、足を進めるのも困難なほどでした。奥の院の手前に近づくと石窟らしきものが発見できました。その奥には仏像を安置していたと思われる「仏龕」が残っていました。教授は岩窟や岩陰をみて、さかんに「スリランカを思い出す」と述懐されていました。それほど神秘的な空間なのです。そこを抜け、ついに奥の院に到着したとき、全員が息を呑みました。巨岩がひしめきあうことによって、創り出されている厳かな風景は、まさに「奥の院」の名にふさわしい神秘的で迫力あるものでした。また、付近の平地には礎石や建築部材に使用されていたであろう木材が多く残されていて、教授によれば、除草作業をするだけで平安時代仏堂の礎石配列が姿をあらわし、それを測量すれば、おおよその外観が復元できるだろうとのことです。そしてまた、その遺構が本当に円仁ゆかりのものであると立証できれば、国の史跡になるだろう、ともおっしゃっていました。私自身、「奥の院」の風景には強烈に惹きつけられるものを感じました。「奥の院」について、なんとかもう一歩踏み込んだ理解ができるよう調査と研究を深めていきたいです。(黒帯)

↑↓岩陰の下には平安時代の本堂跡と思われる礎石や基壇縁石が顔をだしている。
- 2009/07/14(火) 00:08:56|
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