比叡山の煙雨 近江の守山で仕事があり、そのついでに比叡山にあがってきた。ながびく梅雨のため、琵琶湖岸の天候も晴れやかではない。前夜は嵐のような雨が降り、その日は「曇り時々小雨」まで閑けさが戻っていたけれども、晴天続きだった一年前の
琵琶湖一周が嘘のようだ。奥比叡ドライブウェイで、状況はさらに悪化していった。車は雲の中に迷い込んだ。ガスで視界が遮られ、前方20mから先はなにもみえない。ギアをセカンドに落とし、時速30㎏前後のゆっくりとした走行で急傾斜の道路をあがっていくしかなかった。
西塔に着いても一面が霧のなかにあって、重要文化財の常行堂・法華堂(にない堂)も釈迦堂も曇りガラスの向こうにあるかのようにみえ、幽玄に映るけれども、建築を正確に捉えるにはあまりにも条件が悪すぎる。
釈迦堂で香と本を買うと、僧は上機嫌になり、親しみ深く語りかけてきた。わたしも「円仁のことが学びたいのです」と告白した。
「それにしても、天候にめぐまれませんでした・・・」
とわたしは嘆いた。僧は眼を大きくひろげ、
「いや、これは名物でしてな。煙雨と樹林が比叡山の名物なんですよ。」
と打って返してくる。なるほど「煙雨」か。スチームバスのなかにいるような、その微粒子の雨は、たしかに「霧」よりも「煙」に近い。
嵐になると、煙雨はうごめいて幽玄が躍動しはじめ、嵐が去ると同時に晴れ間のなかに樹林が姿を露わにする。この静と動の対比が「名物」なのだと僧は誇らしく語った。

横河の根本中堂と講堂でも、香と念珠と本を買った。そして、根本中堂の僧に対して「唐から帰国した後の円仁の活動が知りたいのです」とのべたところ、事務所に行ってみるよう薦められた。
事務所では若い僧に困った顔をされたが、『慈覚大師讃仰集』(昭和38年)を紹介され、2冊購入した。大きな収穫に顔もほころび、『慈覚大師讃仰集』の頁をめくり始めたところで、はっとした。
わたしには会わなければならない人物がいる。
その方はわたしと真逆の人生を送っている。週末は鳥取にあって住職として過ごされ、平日は比叡山(もしくはその近くで)仕事をされているのだ。お目にかかれるとしたら今しかない。突然、その事実に気がついた。しかし、名前を思い出せない。だから、事務所の若い僧に訊ねた。
「鳥取でご住職をされながら、平日はこちらで天台宗史の編纂をされている方
をご存じありませんか?」


若い僧は「知りません」と素っ気なく答えた。わたしは倉吉にいる仏教考古学の先輩に急ぎ電話した。伯耆の某寺院からの情報だということで、先輩も直接の面識はないらしく、その方が「野本さん」で「天台宗典編纂所」の長をされている方であり、さらに「三井寺(園城寺)に住まわれている」と教えられた(以前、メールで情報をいただいていたのだが、パソコンが手元にあるはずもない)。円仁の次に天台座主となりながら延暦寺から分派独立した円珍(智証)が開基した三井寺は、延暦寺とながく抗争を続けてきた関係にあり、そのような寺になぜ天台宗典編纂の長がお住まいなのか理解に苦しんだが、とりあえず三井寺に行ってみようと決めた。ところが、事務所の若い僧は、「坂本の天台宗務庁で仕事をされているはずだ」という。
比叡山ドライブウェイを下って三井寺まで行き、本堂から天台宗務庁に電話したところ、野本さんにつながった。わたしが事情を説明すると、あかるい声で歓迎の意を示され、その日のうちに会っていただけることになった。
それにしても、どこから「三井寺」の情報が紛れ込んだのか。野本さんは堅田にお住まいなのだそうだ。(続)
- 2009/07/30(木) 13:05:46|
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