慈覚大師由緒の附会 昨日のブログに早くも反応があった。県内在住の歴史研究者からのコメントである。
宗典編纂所の野本さんというと、野本覚成先生のことでしょうか?
(略)鳥取のご出身だったとは。 (略)
野本覚成さんは鳥取県西伯郡伯耆町金屋谷に境内を構える長昌寺のご住職であると同時に、近江坂本にある天台宗典編纂所の編輯長を務める研究者でもある。
天台宗典編纂所は天台宗務庁のなかにある。宗務庁の所在地が「滋賀院の隣です」と言われ、すぐにピンときた。学生時代、近江坂本の伝統的建造物群調査に加わって里坊と町家を実測してまわった経験があり、「滋賀院」はまだ記憶のなかに残っていたのである。三井寺から東行して坂本に至り、迷うことなく、天台宗務庁を探しあてた。
円仁のことを学びたいという研究者が環境大学にいる、という話は、野本さんの耳に届いていた。わたしは、なぜ円仁なのかを伝えなければならなかったのだが、なかなかうまくいかない。最初は、三徳山の梃子入れがしたいのか、とでも思われた節がある。
説明には少し時間を要した。鳥取県の世界遺産候補地を三徳山だけに絞るのは間違いで、候補地の枠組を若干変える必要があるとわたしは思っている。一つに三徳山三仏寺や大山寺を軸とする密教系山岳信仰の歴史とひろがり、いま一つは大山隠岐国立公園の自然が素材として有効であり、さらにそれらを包括する概念として「文化的景観」を適用しようと企図していることを述べた。とくに、三徳山三仏寺や大山寺については円仁再興の寺伝があり、円仁の活動足跡を通して山陰の密教諸山を東洋史のなかに巻き込めないか、そういう願望ともいうべき展望を示してはみた。
野本さんは苦い顔をされた。
「円仁は山陰に来ていない、と思いますよ・・・」
勧請開山についても否定的で、後世の牽強附会であろう、という。ここで強烈な分布図をわたしは目にする。慈覚大師の生誕1200年を記念して天台宗典編纂所が刊行した『みんなで聞こう 円仁さん』(平成7年)は小中学生を対象にした問答形式の概説書で、136頁以降に慈覚大師由緒寺院リストが掲載され、その分布図がカラー折り込み版で示されている。そのリスト=分布図の原資料は関口真大編「慈覚大師由緒寺院一覧表」(福井康順編『慈覚大師研究』天台学会、昭和39年)に掲載された502寺であり、さらに天台宗務庁は平成5年、全国の天台系寺院にアンケートを送付し、慈覚大師由緒の存否を問うたところ、由緒ありと答えた寺院の総数は615寺にまで増えた。北は青森から南は大分まで広範な分布を示し、地域別にみると、東北105寺、関東253寺、近畿118寺、中国55寺、四国4寺、九州9寺となる。このリスト=分布図に従うと、鳥取県は7寺、島根県は10寺にすぎないから、山陰が円仁と係わり深いとはとても言えない。
円仁は下野国(栃木)の生まれで、唐からの帰朝後、出身地の東国で布教に努めたというのが世間に流布した伝承であり、これについては比叡山横河の講堂に飾られた円仁肖像画の解説にも「関東・東北を巡錫(じゅんしゃく)して多くの霊場を開いた」とある(↓)。

野本さんの見解はまったく違う。円仁は帰朝後、第3代天台座主として基本的に比叡山にいた、と言い切るのだ。それでは、慈覚大師由緒の天台寺院はなぜかくも多く、広範囲に分布しているのだろうか。江戸時代初期に幕府が全国の寺院に由緒を問うたことがあるらしい。そこで、天台系の寺院はこぞって「慈覚大師に関わる縁起」を幕府に提出したのだろう、というのが野本さんの理解である。自らの法灯の正当性を主張するため、真言は空海、天台は円仁を開祖だと回答したというわけだ。
この話を聞いたとき、首を縦にふらざるをえなかったのだが、あとでよくよく考えてみるに、すべての寺院の縁起が江戸時代の附会とは言い切れないだろうと今は思うようになっている。真言宗の開祖空海の前に劣勢を強いられていた天台宗が最後の切札として唐に送り込んだのが円仁であり、空海の死と入れ替わるようにして円仁が帰朝し、全国に天台密をひろめる。そういう時期がなかったはずはない。円仁が比叡山を離れたかどうかは別にして、円仁が座主の時代に全国的に天台寺院が増えていったのは当然の成り行きではないか。
したがって、600以上におよぶ慈覚大師由緒天台寺院は、少なくとも二つに分けて捉えなければならないだろう。ひとつは円仁の時代に開山もしくは再興(多くは勧請開山?)がなされた寺院、いまひとつは江戸時代に縁起を附会した寺院である。この夏休みに訪れる予定の山陰諸山についても、このどちらなのかを読み取ることが肝要であろう。ここまで書くと、わたしは野本さんの意見に反論しているかにみえるが、おそらくそうではなく、野本さんも円仁由緒の縁起をもつ寺院のうち何%かは円仁時代の比叡山と係わりがあると思っていらっしゃるにちがいない。問題は、そのパーセンテージだ。
山陰の密教諸山が円仁と係わり、それが中国五台山周辺の仏教寺院となんらかの関係をもつことを証明できれば、「世界遺産」の登録に一歩前進するだろうとわたしは暢気にかまえていた。私見ながら、三仏寺投入堂や不動院岩屋堂のような岩窟もしくは岩陰と複合した懸造の仏堂は石窟寺院の簡略化、もしくは日本化とみれないことはない。摩尼寺「奥の院」の岩窟をみて、その想いをさらに強くしている。平田市の鰐淵寺や隠岐の焼火神社(旧真言寺院)もこの系列に属するものとみてよいだろう。9月に学生たちと訪問する大同雲崗の石窟や懸空寺がそのルーツにあるとすれば、これほど愉快なことはないと夢見ていたのだが、慈覚大師由緒天台寺院のひろがりをみるにつけ、「岩窟型寺院」が円仁のもたらしたものだという発想は捨てるべきかもしれない。
「岩窟型寺院」の源流は、あるいは7世紀の雑密(ぞうみつ)の時代にまで遡るのではないか。南北朝時代にもたらされた古い仏教と関係があるのか、ないのか・・・その当時、木造建築はほとんど存在せず、ただ険しい崖や岩陰、岩窟、巨石などが信仰の対象もしくは道場としてあったのが、平安期における純密導入以降、自然と木造建築が複合化することによって、今にみる建築主体の聖地景観が形成された可能性がある。こういう発想は妄想にすぎないと批判されて終わることが世の常かもしれない。ただし、実証の手だてがないわけではない。たとえば、摩尼寺「奥の院」の発掘調査は謎を解明する手段の一つとなりうるだろう。
話が横にそれていった。坂本の天台宗務庁で、わたしはおそるべき研究者と出会った。円仁のみならず、比叡山と天台宗の歴史を、現在、日本でもっとも詳しく知る研究者であり、驚いたことに、その人物は週末になると鳥取に戻り、一住職としての生活を続けているのだ。
不思議なえにしを円仁が導いてくれた。
- 2009/07/31(金) 00:54:22|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0