下の文章は8月3日に来鳥された
松岡先生とともに鳥取城三の丸外側の発掘調査現場を視察した際の記録である。この記録を今日までアップしなかったのは、発掘調査現地説明会(現説)による調査主体側からの情報公開をまっていたため。その現説が10月10日(土)におこなわれた。研究室からはエアポートとアシガルが参加しており、明日アシガルが現説のレポートをアップすることになっている。その序文として以下の文章を読んでいただければ幸いである。
さて、県の文化財保護審議会が学校改築の現状変更に反対する要望書を提出するという情報が複数の筋から流れてきた(今回は見送りとも?)。にわかにアシガルの卒業研究「鳥取城三の丸高等学校-史跡と共存する校舎の設計-」が大きな意味を持ち始めてきた。校舎を現地から移転せよ、という発想も暴力的だが、国史跡のなかにあって、それを無視した設計案を進めようとする開発側の発想も横暴であり、関係者がどれだけ「史跡と共存する校舎の設計」案を深めていけるかどうか。わたしたちのアイデアが触媒になれば嬉しい。(教師)
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8月8日にアシガルがレポートしたように、同月3日、松岡先生が来鳥された。松岡先生は、城郭内の宗教施設に関する研究もされており、安土城見寺コンペの際にも何度か文献で名前を拝見していたので、今回の面談に同行させていただいた。すでにアシガルが、私が卒業研究の際に編集した冊子『仏を超えた信長』を松岡先生に郵送しており、FAXでお返事をいただいていた。このところ思うのだが、その道の専門家と面と向かってお話していると、自分が一生懸命背伸びしているような感じがしてチョッピリ恥ずかしい。
ダウラでの筆談のあと、松岡先生とともに発掘調査中の鳥取西高校東グラウンドを視察した。この遺跡は高校の校舎改築に係る事前発掘調査で検出されたもので、鳥取城三ノ丸に隣接することから鳥取城関連遺跡として注目されている。調査面積は約2800㎡と大規模なものだ。

4月にゼミで訪れた時は40㎝ほどあるグラウンドの表土を撤去し、数箇所掘り下げた状態で遺物も少なかったが、今回は江戸~明治時代の遺構がみつかり、また多くの遺物が出土している。建物の輪郭と思われる遺構が何層かになって姿をあらわしており、前回のゼミの時点で検出されていた幅半間ほどの「平べったい石敷」の一列は、約20m×約8mの長方形をなすことがわかり、同じような遺構が7区画、同じ角度で並んで検出された。また対面する区画1と区画4の間に、平行に低い基壇の側石にみえる石列が石敷から半間離れて一列ずつ検出された。検出当初、一列の石敷は「雨落ち溝の底石」で、その脇にあるごろごろした石の詰め込みは基壇下の「地業」であり、雨落ち溝の底石の規模からみて大規模な建築だった可能性があるとみられ、明治期の校舎建設時に基壇は削平されたと推測していた。しかし、この平行する側石が2列検出されたことにより、「オダレ」が存在した可能性が考えられ、ロの字型に廻った石敷は側柱の布基礎で、その上に礎石が置かれていたと推定できる。
となると、約20m×約8mの建物に半間のオダレが付属した建物が7棟存在し、これが史料にみる「籾倉」だとすれば、幕末期に大規模な御蔵群があったことが考えられる。また、この遺構と近いレベルで鳥取女学校の基礎と鳥取鑑別所の遺物が検出された。女学校の基礎は明治期のもので、現在の鳥取西高と同じ方位を維持している。モミグラより建物規模は小さく一列に並んでおり、台所と思われる遺構は、撤去されたカマドの底を中心に真っ赤な焼土が検出された。一方、鳥取鑑別所の遺物は、約10m×2m、深さ1mほどの石積の溝かと思われる遺構の中に「鳥取鑑別所」と書かれた木製の弁当箱や、汁碗が山のように出土している。


このように多層の遺構が同じエリアから検出されることは珍しく、近世の刑務所跡が発掘された例は全国的にも極めて稀らしい。遺跡においてもいえることだが、発掘現場を訪れると毎度想像力を湧き立たせられる。遺跡と地形が形成する景観につつまれ、あたかも自分が当時にタイムスリップしたかのような感覚に陥る。遺跡景観が目指すべきところはここにあるのではないだろうか。松岡氏も筆談で述べていたが、史跡の活用整備が今後のテーマとなるだろう。これについては個々の対象に応じた整備が必要であり、今後自分の研究の大きな課題になるに違いない。 (Mr.エアポート)
- 2009/10/14(水) 00:43:59|
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