隠岐の「大社造」変態 隠岐・出雲の旅2日目(8月5日)。前日の悪天候から一変、すばらしい天気に恵まれ、真夏の隠岐にふさわしい天候となりました。2日目となる今日は隠岐島前の調査になります。朝方のフェリーに乗り、いざ西ノ島へ出発!!
さて、隠岐の神社と言えば、重要文化財の水若酢(みずわかす)神社と玉若酢(たまわかす)神社があまりにも有名ですね。道後にある両社の本殿は「隠岐造」という隠岐特有の様式で一括されます。「隠岐造」はちょっと変な様式なんです。平面はあきらかに「流造」なんですが、正面からみると「大社造」風にみえなくもない。当初は流造の外観をしていたのでしょうが、ある時期、それを無理矢理、「大社造風」にみせようと改修したのだけれども、「大社造」そのものというよりもむしろ「大鳥造」か「春日造」に近い外観になってしまった。とはいえ、それを「大社造」変態と呼べないことはないわけで、隠岐文化の出雲化を物語る物証であるのは間違いないでしょう。今回は、あえて「隠岐造」の神社を外し、明日アシガル君が報告する出雲側との対比をめざして、島前に境内を構える「大社造」変態の例をとりあげてみます。
1.由良比目神社 【鎮座地】〒684-0211 島根県隠岐郡西ノ島町大字浦郷922(旧隠岐国知夫里郡)
【祭神】由良比女命
【旧社格等】郷社 隠岐國一宮 式内社
由良比目神社は、島後の水若酢神社とともに隠岐一宮とされています(ほんらい一宮が二つあるのはおかしいですが、島前と道後で1社ずつ選ばれたのでしょうか?)。
「イカ寄せの浜」として知られる由良の浜の近くに境内を構え、鳥居をくぐったすぐ先に神門があります。教授の説明によりますと、「神社の境界にはただ鳥居と垣だけがあって、門や回廊があったはずはないのだけれども、宮殿や寺院の影響でそれらを導入するようになった」とのことで、神門(随神門)は「寺院の仁王門の影響だろう」と説明されました。神門は平屋建入母屋造平入で、和様を基調としながらも台輪や拳鼻など禅宗様の要素が散見されます。組物は三ツ斗に実肘木。年代は、虹梁絵様の様式から幕末~明治初期。絵様の渦が丸いか楕円か、線が太いか細いか、若葉が渦に離れているか、くっついているかで年代が判定できるのだそうです。拝殿は桁行5間×梁行4間。入母屋造平入で、向拝に軒唐破風をつけています。向拝の組物は出三斗。中備の龍の彫刻はとても迫力があります。昭和9年に改築。


さて、問題の本殿が2間×2間の「大社造」変態です。
3日前に黒帯くんが説明したように、ここにいう「変態」とはアブノーマルではなく、バリエーション(もしくはサブタイプ)のことです。由良比目神社本殿の場合、木階を覆う切妻屋根が正面全体を覆って棟持柱を隠しており、外観は「大鳥造」や「春日造」に近いものとなっています。隠岐ではこの様式を「明神造」とも呼ぶそうですが、出雲本土側にも同じ様式の大社造は少なくありません。問題は一番上の写真にみるとおり、細部装飾の華やかさです。まず組物ですが、軒下を禅宗様の三手先にして派手に作っています。さらに妻飾りは二手先にしてケラバを深くしており、禅宗様特有の反りのある尾垂木を中心とした意匠に目を奪われます。腰組も強烈な二手先です。とくに隅の鬼斗にのる肘木が手先を三方向にひろげているところがなんとも賑やかですね。鬼斗と言えば、中国にも朝鮮半島にも存在しない部材なので、「和様」というイメージが強いですが、禅宗様にも使われています。野小屋と鬼斗は、中国の禅宗建築に存在しない日本の禅宗様の重要な要素です。
ここまで禅宗様の影響が強い大社造本殿をみたことがない、と教授もおっしゃっていましたが、由良比目神社本殿の正面は千鳥破風と軒唐破風を併用した宮殿(くうでん)タイプの意匠をとっており、神仏習合ごちゃごちゃのデザインになっているところがじつにおもしろいと思いました。年代はおそらく明治以降で、拝殿の建築時代にちかいのではないかと思われます。

2.隠岐神社 【鎮座地】島根県隠岐郡海士町大字海士一七八四番地
【祭神】後鳥羽天皇
隠岐神社は後鳥羽上皇の廟として、昭和14年に造営されました。
承久の乱(1221)で破れ、隠岐へ配流された後鳥羽上皇は西ノ島の源福寺を御在所としていました。上皇は配流後19年を歴た延応元年(1239)に隠岐で崩御。その遺灰は北面の武士、藤原能茂によって京に持ち帰られ「大原陵」に埋葬されています。しかし、遺灰の一部は崩御地に残され、源福寺の一隅に埋葬され、御廟としての社が建てられていました。
明治2年、廃仏毀釈によって源福寺は焼却。明治6年には、御廟は大阪の水無瀬神宮に遷座・合祀され、これによって、島前海士町の御本殿は撤廃されたのですが、その際に骨壷が発見されたため、宮内庁が管轄することになりました。現在は「隠岐海士町陵」または「御火葬塚」と称し、准御陵扱いとなっています。上皇ご存命の頃から身辺のお世話をした地元豪族の村上氏が代々、御陵の管理を担っています。(社頭由緒掲示板より改変のうえ抜粋転載)


まず、昭和14年という建築年代に注目せざるをえません。皇国日本が日華事変(1912~)から太平洋戦争(1916~)に邁進していく時代ですが、それは「明治維新」の王政復古制度が歩んでいく最終段階にあたります。明治維新によって、天皇の地位が復権し、そのことが神道の勢力を台頭させ「廃仏毀釈」を導きました。仏教寺院の破壊とともに新しい神社が次々と生まれていったのです。その代表格が明治23年に初代天皇(神武天皇)の廟として造営された橿原神宮、明治28年の平安遷都1100年に造営された平安神宮(桓武天皇の廟)などの官幣大社です。
皇紀2600年(昭和15年)、天智天皇を祭神として造営された近江神宮も、平安神宮や橿原神宮と同じ背景をもつ大社ですが、その建築年は隠岐神社造営の前年です。さらにつけ加えるならば、ほぼ同じころ満州や南太平洋などの「大東亜共栄圏」においても続々と神社が建設されています。とすれば、隠岐神社もまた大政翼賛の一翼を担う存在であったという造営背景を否定できないでしょう。
だから、この神社が良くないものだと言いたいわけではありません。むしろ、おもしろい建築であることをここでは強調したいと思います。教授はこの神社をみて、何度も「上手い、うまい」と絶賛されていました。じつは、明日アシガル君が報告する美保神社の本殿以外の建物の意匠と隠岐神社のそれはそっくりでして、教授から「設計した建築家を調べておきなさい」と言われていたのですが、いまだ判明していません。いずれ調べますので、しばらくお待ちください。

本殿は平面が3間×2間の「隠岐造」にもみえますが、正面は2間分の長さの中央間に扉を設けて端間を両脇に配しているだけでして、「大鳥造」風の「大社造」変態とみるべきでしょう。この点では由良比目神社本殿と共通するわけですが、意匠はまるっきり対照的でして、組物はいっさい使わず装飾を排除した素木造になっています。教授は、本殿もさることながら、拝殿・回廊などの附属舎をみて、均整のとれたプローポーション、木鼻など細部彫刻の可愛らしさなどがお気にめしたようです。とくに手水舎の柱配置に関心されていました。一般的な手水舎はただの4本柱の建物ですが、隠岐神社の場合、隅柱の脇に添柱をつけて3本の柱が一体になるように組んでおり、構造的な安定性がきわだっています。これは、現代の木造建築にも応用できる構法だと教授は関心しきりでして、おまけにそれとそっくりな手水舎を翌日、美保神社で発見したものですから、「設計者はだれ?」という好奇心がわきあがってきたみたいです。

今回の調査では、社寺建築を訪れるたび、構造形式や組物について教授に質問されました。「この建物の特徴を一つでよいから説明しなさい」と問われ、同行している学生全員が必ず答えなければならないのです。自分を含めて4年生はさっぱり答えられませんでした。日本建築に関する基礎知識の無さを痛感した次第です。院生のエアポートさんがすんなりと組物や様式を答えているのを見て、勉強しなおさなくてはいけない、このままでは卒業しても建築系の学科を卒業したとは言えない、と思わずにいられませんでした。
この夏はまだまだ社寺建築を訪問する機会が多いので、しっかり勉強します。
チェスト!! (黒猫)
- 2009/08/13(木) 12:32:02|
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