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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

隠岐出雲巡礼(Ⅸ)

01鰐淵寺07浮浪滝01


円仁の風景(Ⅷ)-浮浪山鰐淵寺

 8月7日(金)は4日間に及ぶ隠岐出雲巡礼の最終日。まず、平田市の鰐淵寺へ向かいました。アシガル君がレポートしているように、前日(6日)、出雲大社を訪れる道中ずっと弥山をおっては車を停め、撮影を繰り返していました。島根ワイナリーのなかのバーベQ店の名が「弥山」でして、たしかにワイナリーからみる山貌は際だった円錐形に映ります。

DSC02940.jpg この弥山の西麓に出雲大社があり、東麓に鰐淵寺があります。言いかえるならば、弥山を媒介にして出雲大社と鰐淵寺は表裏一体の関係になっているわけです。昨日も述べたように、弥山は出雲国風土記には「三前山(みさきやま)」とみえるのですが、神仏習合の進む中世に仏教宇宙を表現する「弥山」と名を改めます。この時期、鰐淵寺は出雲大社に対して大変な影響力をもったようです。とりわけ、尼子氏による寺社支配が強化されると、大社境内の寺院化が進み、大社における仏事の導師を鰐淵寺僧侶が務めるまでになりました。しかし、江戸時代寛文度の造替から、一気に仏教化の反動が強まり、鰐淵寺と大社の関係は疎遠になっていくのでした。

 浮浪山鰐淵寺の縁起は、驚くべきことに、推古2年(594)にまで遡ります。門前にある「浮浪山 一条院 鰐淵寺」の看板の説明を抜粋しておきます。

   推古2年(594)智春上人が推古天皇の眼疾を浮浪の滝で祈って平癒された
   ので、その報償として建立された勅願寺である。天竺(印度)霊鷲山の良地
   が欠けて波に浮かんで来た土地で浮浪山と称す。上人密法を修し給う折、
   誤って碗の仏器を滝壺に落とされ、鰐魚(わに)が鰓(えら)にかけ浮かび
   上がったことにより寺号を生じる。
   伝教大師が比叡山に天台宗を開かれると、慈覚大師の薦めもあり、日本で
   最初の延暦寺の末寺となる。(後略)

 智春上人の看板に記された説明書は以下のとおりです。

   信濃の神僧智春上人は遊化して伯州北の浜まで迎えにきた智尾、白滝、
   旅伏の三翁の船に来り旅伏山に着き
     コゾノケフ 詠メシ月ハ カハラネド コヨヒタビフス 空に充カナ
   と詠し、翌日、現在の蔵王の滝にして釈迦文佛より命を受けて開山した。

 もともと弥山(三前山)、天台ヶ峰、鼻高山、旅伏(たぶし)山とつらなる北山の山嶺は密教、修験道の聖地であり、とりわけ鰐淵寺浮浪滝およびその背後の絶壁に穿たれた蔵王宝窟と蔵王堂(↓)は出雲における蔵王信仰の拠点とされてきました。

DSC03616.jpg



01鰐淵寺07浮浪滝02滝壺01アップ
 この点、伯耆における三徳山投入堂との由緒の類似を強く感じさせます。造形・立地等の面からみても、滝との複合という点で隠岐道後の「壇境の滝」、絶壁に穿つ岩窟に仏像を祀る点で焼火山雲上寺・壇境の滝・摩尼寺「奥の院」、懸造との複合という点で三徳山投入堂・不動院岩屋堂との連続性を強く感じさせます。また、本尊が蔵王権現である点は天台密と無縁であり、6~7世紀の「雑密」が生んだ山岳信仰拠点の一つであったのでしょう。
 一方、寺伝によれば、慈覚大師円仁は唐より帰国後、太宰府から山陰経由で帰京する途中、鰐淵寺を訪れたことになっています。円仁の看板の解説も転載しておきます。

   (前略) 承和5年(838年)入唐、同14年九州太宰府より山陰を巡化して
   帰京。その途中鰐淵寺において、薬師如来と千手観音の2体の像を刻んで
   本尊とし、法華堂・常行堂を建立、三大杉は大師のお手植である。

 この解説には若干の矛盾が露呈しています。「鰐淵寺」の看板には「伝教大師が比叡山に天台宗を開かれると、慈覚大師の薦めもあり、日本で最初の延暦寺の末寺となる」とありますが、最澄の示寂は弘仁13年(822)であり、円仁が帰国した承和14年(847)を遡ること25年。寺伝に従うならば、円仁が大宰府から山陰を経由した「巡化」時に鰐淵寺はすでに天台宗の寺院であったことになります。ですから、三徳山のように「円仁の再興」とは言いがたいことが分かるでしょう。
 もっとも、「円仁の風景(Ⅶ)」でレポートしたように、円仁が山陰に来たという保障はまったくないのですが、少なくとも平安時代の前半期に山陰にいくつかの天台宗寺院が誕生したのは疑いないところで、鰐淵寺はその代表格であろうと思われます。

01鰐淵寺02根本堂01

 浮浪滝と蔵王堂が「雑密」時代の象徴ならば、天台系伽藍の中心は根本堂です(↑)。比叡山延暦寺の根本中堂は内陣・中陣・外陣の3つの空間から構成されていますが、鰐淵寺根本堂はいわゆる内陣・礼堂(外陣)造。根本中堂における回廊部分を省略し、全体の規模を大幅に縮小しています。平面は5間四方で、外陣には壁や建具がなく開放的ですが、柱に痕跡が残っており、当初は何らかの建具をともなっていたのでしょう。外陣は床を貼らず四半敷にしています。屋根は入母屋造の平入中央に軒唐破風をつけていますが、向拝はありません。柱の上端には粽があり、台輪上の組物は柱上と中備とで異なっており、柱上は簡略型の二手先、中備は出組です。また、外陣・内陣境の組物は、柱上が出三斗、中備は蟇股となっています。全体に禅宗様色の強い仏堂と言えるでしょう。現在、修理中です。

01鰐淵寺03三本杉

 根本堂の本尊は薬師如来と千手観音の二体ですが、すでに述べたように、円仁が鰐淵寺を訪れた際に刻んだものと伝えられています。また、根本堂の向かって左手にあるのが、円仁お手植えと伝承される「三台杉」です。「三台杉」の奥には摩陀羅神社が鎮座しています。
 摩陀羅神社もまた円仁にまつわる由緒があります。摩陀羅神信仰は、天台密教における秘密の修法とされ、延暦寺とその末寺である大山寺、鰐淵寺のほか、出雲大社や日光東照宮などでも祀られてきました。摩陀羅信仰はインドに起源する密教の神という説があり、最澄が唐から日本へ、円仁が鰐淵寺へもたらしたとも言われているようです。摩陀羅神社は江戸時代まで出雲大社の裏にあたる北陀にあったといい、それが境内に移築されたとのこと。拝殿は宝形の屋根に覆われ仏堂のようにみえます。また、本殿はあきらかに大社造なのですが、正面の棟持柱を隠すように通殿の屋根と階隠を一体化させて反りをつけています。これもまた「大社造」変態の一つであるのでしょうが、「大社造」の特徴を覆い隠そうとする露骨な意図を感じ取れます。あるいは、出雲大社との関係の疎遠が生んだ変態なのかもしれません。

01鰐淵寺06マダラ神社01


 このほか根本堂右手の鐘楼には、寿永2年(1188)の銘をもつ銅鐘が吊るされています。もとは倉吉市の大日寺にあった鐘で、弁慶が大山寺から一夜のうちに持ち帰ったという伝承が残っています。ちなみに弁慶は出雲の出身で、18歳で鰐淵寺に入山。3年間修行の後、書写山を経て比叡山に入ったと伝えられています。

 鰐淵寺は7世紀以前の「雑密」時代の信仰を伝える浮浪滝・蔵王堂と9世紀以降の天台宗伽藍が複合しており、両者の縁起の違いが鮮明である点にまずは注目すべきでしょう。これは、絶壁や岩窟と複合する山陰地域の類例-三徳山・焼火山・摩尼寺・不動院岩屋堂など-の成立年代を推定する上で欠かせない基準になるものと思われます。
 また、鰐淵寺は円仁や比叡山と関わる由緒が非常に多い点でも特筆すべき寺院です。円仁の開山や再興についてさらりと触れるのではなく、「最澄への推薦」「大宰府から山陰を経由する巡化」「薬師如来と千手観音の手彫り」「三台杉」「摩陀羅神社」など円仁抜きでは寺の由緒が語れないほどであるという点に注目しないわけにはいかないでしょう。今後、研究を展開するにあたって、最も重要な位置を占める寺院の一つとなるのは間違いなく、研究を深めていかなければなりません。(部長)

 01鰐淵寺01案内板03マダラ神社 01鰐淵寺04鐘楼01


 01鰐淵寺01案内板01智春01 01鰐淵寺01案内板02円仁01



  1. 2009/08/16(日) 12:31:39|
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