円仁の風景(ⅩⅠ)-大山寺の岩窟と湧水 弥山を満喫したASALAB一行は、脱兎のごとく山肌を駆け下りた。山陰独特の蒸し暑い真夏の天候も、山頂に登れば風が気持ちよく、日差しもどこかやわらかい。雲の向こうにひろがる神話の舞台は想像以上に美しく、皆すっかり酔いしれた。気づけば、時計の針は1時半をまわっている。今日は、日が暮れるまでに大山自然歴史館、大山寺、大神山神社奥宮を巡らなければならない。このミッションを成功させるために、学生はもと来た「夏山登山道」を降りて、閉館時間が一番早い大山自然歴史館を目指した。靴底に鉛をつけた先生は、直接大神山神社へ続く「行者谷コース」に針路を変更し、後に境内で落ち合うことにした。日差しが照りつける岩肌は乾燥して滑りやすく、ごつごつした石に足をとられた。それでも後半は走りながら石段を駆け下り、約1時間半で下山。無事、自然歴史館を訪れることができた。自然歴史館では植生や地形・地質を始め、大山の生い立ちや大山の山岳信仰の歴史などが紹介してある。今回は資料を調達する程度であったが、時間があればゆっくりまわってみたいところだ。トイレ休憩を済ませて息を整え、先生が待つ大神山神社奥宮を目指して参道を上がっていった。

のどはカラカラ。1.5リットルのペットボトルも空っぽ。今夏の巡礼では、いったい何段の石段を上り下りするのだろうか。どうやらこの大神山神社の石畳は700mもあり、自然石を使った参道としては日本一だそうだ。登山後の疲弊した体には、あまりにもキビシイ。石畳の石と石の隙間に足をとられ、何度も転倒しそうになった。アシガルはあまりのしんどさに竹杖を突いている。それでも石畳の周囲は樹々に囲まれ、木漏れ陽が心地よく、苔むした石畳の脇を流れる清流に涼を感じた。手水鉢で口を清めると、疲れた体も少し回復した。
大山寺から移築された唐破風の神門をくぐり、ふと境内を見上げると石段の先に先生がおられた。学生よりもほんの少しだけ早く奥宮に到着していたらしく、石垣に腰をかけて体を休めておられる。すっかり待たせてしまったと思った学生たちは最後の力を振り絞り、境内へとつづく石段を一気に駆け上がり、拝殿へと向かった。が、先生はまったく立ち上がろうとはしなかった。そして、一言。
「高山植物の写真を撮ろうと思って、屈伸したら立てなくなっちゃった…」
話をうかがうと、下山時に分かれた「行者谷コース」は、分岐点から1㎞ばかり急峻な行者道が続き、下山時は「足が嗤う」状態をはるかに超え、「足に激痛が走る」状態の連続だったという。私たちが下山し自然歴史館に入ったころ、先生はちょうど「賽の河原」(↑)におりたところで、そこから奥宮まで1.5㎞と記す道標をみたとき、いったいあとどれだけかかるのか想像できなかったという。しかし、「賽の河原」を越えると、沢沿いの比較的なだらかなコースになり、なんとかかんとか奥宮に辿り着いたばかりで、いったん座り込むと動けない、というのが真相だった模様。

1.大神山神社奥宮
明治八年、神仏分離・廃仏毀釈による大山寺号廃止にともない、大智明大権現の社殿を大山寺より分離し、この社殿を大神山神社奥宮としたもので、大己貴命(大国主命)を祀っている。元の社殿は1653年に建立されたものだが、1769年に火災で焼失。現在の建物は1805年(文化2年)に再建されたもので、拝殿・本殿を幣殿で結び、拝殿の両側に長い翼廊をつけた、壮大な権現造だ。幣殿内部は畳敷で63畳もの大空間がひろがっている。組物は出組を用い、柱・梁・長押などほとんどすべての部材に彩色が施されており、格天井には花鳥人物が描かれていて、豪華を極めている。
先生は先に奥宮に到着した際に、すでに拝観をすませていたらしく拝殿で宮司さんとお話をしておられた。 一方、学生は、奥宮で拝観をすませると、畳に根をはって動かなくなった。登山後の畳は格別で、色彩豊かな空間に包まれながら一行はしばし休息。それでも今日は急ぐ旅! 奥宮の隣にある八棟造・権現造の摂社・下山神社(文化二年↓)をぐるりと参観し、大山寺本堂を目指した。
さて、先生は祭神・大国主命と権現造の関係を訊かれたそうですが、廃仏毀釈の影響からか、宮司さんは「このあたりが(日本における)仏教の起源地なんでしょ」と発言されたそうです。先生から「意味が分かるか?」とあとで質問されたのですが、さっぱり分かりませんでした。あとで説明をうけた内容を要約しておきます。

神道というのは、日本古来の宗教のように思われているが、じつは天武・持統朝(7世紀後半)ころに「作られた宗教」である。当時、日本最初の都城「藤原京」が誕生し、中国的な律令制度が日本全国を支配し始めた。仏教はそれよりも前の欽明朝(6世紀前半)に日本に伝わり、普遍性をもった宗教として日本に浸透し始めるが、このような仏教・都城・律令などの外来文化の波及に対する反動として「神道」が組織化されたという見方が有力である。とすれば、仏教は神道よりも古くから日本に根付いていた宗教ということになる。奥宮の宮司さんは、そのことを暗示しながら、しかもその起源地が山陰あたりにあると遠慮気味に言おうとされていたのであろう。そしておそらく、ここにいう仏教とは、百済から欽明朝に伝えられた正式な仏教ではなく、民間レベルで大陸から伝わってきた山岳仏教のことを言っているのではないか。


2.大山寺本堂 背後の山
伯耆の円仁伝承寺院として、三徳山三佛寺とともに最も重要な位置を占めるのが大山寺である。本堂は、もと大日堂で明治八年以降に今の形式となる。大山寺の開創は718年に金蓮上人が地蔵菩薩を祀り、修験道場として開かれたが、860年に慈覚大師円仁により天台宗寺院として再興された。近世においては、江戸幕府より3000余石の寺領をゆるされ、別格本山として隆盛を極めたが、昭和3年の火災で本堂が焼失。現在の建物は昭和26年の再建にかかる。平面は密教特有の内陣礼堂造で、礼堂を土間とする点は鰐淵寺根本堂や転法輪寺本堂と共通する。屋根は銅板葺の宝形造で
三間の向拝に軒唐破風をつける。境内には本堂のほかに、鐘つき堂、宝牛、宝篋印塔などが配置される。また、本堂正面はコンクリートではあるが懸造の広い舞台になっており、そこからは弓ヶ浜半島の美しい曲線がうかがえる。本堂正面に日本海、右に大山北壁と、自然景観を一望でき、立地条件は抜群だ。

ふと本堂の横に目をやると、草木に埋もれてはいるが岩山の麓に「三宝蔵」と刻まれた円筒形の石造物が見え隠れしている。この三宝蔵の表面には小さな穴が開いており、読み古した経文をその穴から納入するものらしいが、先生はこの石造物の裏側に岩窟があるようで気が気でない様子。いつものように、黒帯に命じてよじ登るよう指示するが、手前のお地蔵さんがこれを守るかのように一列に並んでおられて、黒帯も逡巡している。目をこらすと、岩山の中腹に穴らしき影が見えるような、見えないような・・・岩山を眺めていると、脇に湧水池があることに気がついた。とても小さな池で、鐘つき堂の影になっているので、本堂をメインに見学しているとついつい見逃してしまうほどだ。よくみると、池の奥に何やら窪みを発見。草木に覆われて、一見ただの穴のように見えるが、実は小さな不動明王が池を見守るかのように鎮座している。岩窟だ…。
もしかすると、この岩山が初期の山岳信仰の出発点だったのかもしれない。少し離れてみると、この岩窟の背後には大山北壁の美しくも荒々しい表情がうかがえる。本堂が建つ以前は、この岩山の前が参拝地で、ここに岩窟をつくり、これを通して遠景の大山を崇めていたかも…。いつものことながら、こういう小さめの岩窟をみると、7世紀以前の「雑密」との関わりに想いを馳せてします。これまでに訪れた焼火神社(旧真言寺院/隠岐島前)、壇境の滝(同左/隠岐道後)、鰐淵寺浮浪滝、また鳥取県側の三徳山三仏寺、不動院岩屋堂、摩仁寺奥の院などの岩窟と一連のものとしてとらえうるのかどうか。今回の場合、奥宮神官の「このあたりが仏教の起源地でしょ」という発言も耳に残って仕方ない。問題は「起源(地)」と岩窟の係わりである。

伯耆大山は、「大山隠岐国立公園」の中核地域として日本有数の生態系を保全しているとともに、山頂からの景観は日本有数の文化的景観眺望地点と評価できると同時に、古代の山岳信仰の一大拠点地として高く評価できる。今夏の巡礼は、山陰地方に点在する古代仏教諸山を「自然」と「文化」の両面からみることで、実は両者が相互に深く関わっている可能性を見通せたことに、最大の収穫があったと言えるだろう。(Mr.エアポート)

最後の巡礼予定地、大山寺阿弥陀堂(重要文化財)まで歩いていくエネルギーはすでに失せていた。もう動けない・・・ジンギスカンをたらふく食べたが、そう簡単に体力は回復しなかった。
- 2009/09/02(水) 00:30:18|
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