世界文化遺産 雲岡石窟 北京から寝台列車に揺られ、深夜1時に到着した山西省の大同。北魏の時代、文成帝は初めここ大同に都しました。そのときの首都の名は「平城」。どこかで聞いたことがありますね。
翌朝(2日)、ホテルで今回お世話になる通訳ガイドの田(デン)さんと合流し、さっそく雲崗石窟へ見学に向かいました。雲岡石窟(かつては「雲崗」と書かれていましたが、いまは「雲岡」が正式名称です)は敦煌の莫高窟、洛陽の龍門石窟と並び、中国三大石窟のひとつで、2001年には世界文化遺産に登録されています。北魏文成帝の時代、興安2年(453)頃から石窟の掘削が始まり、2代献文帝の時代に造営が大きく進みましたが、3代孝文帝の代に洛陽に遷都してからは国家的な造営は停止しました。ただし、その後も私的な造寺造仏は正光年間(520~525)まで続きました。
雲岡石窟に近づくと、斜面のいたるところに穴が掘られているのが道路からでも分かります。車を降りてさらに近づくと、そのスケールの大きさに圧倒されました。とにかく、大きい。山のふもとの斜面が東西約1キロに渡って掘削され、その中には仏像が彫られていたり、塔が彫られていたりと様々です。

たとえば、一番東に位置する第1窟・第2窟には、掘削された穴の中央に塔が彫られています。これは信仰上の意味だけではなく、石窟を支える構造材の役割を果たしています。塔は木造密檐式の様式が見て取れ、平三斗や人字形中備が鮮明に表現されています。他にも壁面に建築物の一部が彫られている石窟がたくさんあり、北魏時代の建築様式を知る必要不可欠の仏教建築遺産となっています。
石窟内の仏像は多種多様で、その仏教的な理解を記すのは、わたしの理解を超えています。ただ、そのなかで一番記憶に残ったのは、第20窟の「高さ約14メートル」の仏像です。これは「露天の大仏」とも言われています。かつて、すべての石窟の正面には木造建築の礼堂が軒を連ねていたそうですが、いまそれを残すのはわずかになり、さらに20窟の場合、庇のように大仏を覆っていた石窟の前面が1000年前に崩壊してしまいました。以来、風雨にさらされやすい状況となってしまっています。
第5窟・第6窟の正面には、清代に造替された木造建築の楼閣が残っています。楼閣の1階部分が前室、石窟が後室という構成になり、これを見たエアポートさんは、まるで「内陣礼堂造」のようだと感じたようです。前室が礼堂(外陣)、後室が内陣という空間配置であるという、ひとつの可能性を感じさせるものでした。また、第5窟の仏像は雲崗石窟の中で最も大きく、高さ17.7メートルもあります。第6窟には中心に巨大な塔があり、こちらには仏陀生誕から涅槃までの物語や大小様々な仏像約3000体が彫られていました。


すべてにおいて、さすが中国!という大きさで、本場のスケールを体感できました。あたりまえのことですが、インドに起源する石窟寺院は中国までは伝播しましたが、日本には伝わっていません。ただ、石窟寺院への憧れがなかったかといえばそうではなく、たとえば大分県臼杵の磨崖仏などは石窟寺院の省略形として理解できないわけではないでしょう。これまで隠岐・出雲・伯耆を巡礼して発見した岩窟についても、石窟の簡略形とみれないことはもちろんありません。たとえば、雲岡第6窟の隣にあって少し規模を小さくしたくらいの第7窟の木造建築と石窟の複合した外観は、若桜町の不動院岩屋堂をどこか思い起こさせるものでした。日本の場合、岩窟の前に建てられる木造懸造の仏堂は「内陣」にあたる場合が多いですが、その当初形が「岩窟=内陣、懸造=礼堂(外陣)」であったことを論証できれば、中国石窟寺院と日本の岩窟型仏堂との系譜関係がみえてくるかもしれません。
雲岡の掘削年代は5世紀後半、日本への仏教伝来は6世紀前半(欽明朝)です。二つの年代も、なにやら示唆的ですね。(部長)
- 2009/09/05(土) 00:22:04|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0