渾源の懸空寺 3日目(9月3日)は、まず山西省渾源の
懸空寺を訪れました。三仏寺投入堂とよく似た懸造(中国では「吊脚楼」と呼びます)の建物としてよく知られており、LABLOGでも一度登場したことがあります。黄土高原の広大な平地を眺めつつバスに揺られていると、歴代王朝の挙行する山岳祭祀の対象として最高位の「五岳」のひとつに数えられる北嶽・恒山が眼前にあらわれました。絶壁にもたせ掛けるように建てられた懸空寺を発見して一同大興奮です。
懸空寺は北魏後期に創建されましたが、何度か修復・拡張されており、現存している建物は清の時代以降のものだそうです。たしかに、建築様式の細部をみると、北京の故宮に似ているような気がします。入口(山門)付近には安全の守り神を祭る石造の祠があるのですが、教授は「これは木造建築よりも古いものかもしれない」と注意深く観察し、何か引っかかるものがあるようでした。

懸空寺でともかく驚いたのは、複数の楼閣がただ板を並べただけの狭い通路で繋がっていて、気を付けながら歩かないと崖下に落っこちそうになるほどスリル満点でした。縁の下には、細い柱がたくさん並んでいるのですが、実は荷重をあまり受けていなくて飾りみたいなものだと聞き、柱を少し触れてみるとゆらゆらと揺さぶられたのには本当にヒヤヒヤしました。それでは、どうやって建物を支えているのか。階ごとに岩壁に差し込まれた梁によって荷重を支えたり、バランスをとっているのです。これには驚くほかありません。

懸空寺は中国でも珍しい「三教合一」の寺院です。仏教、道教、儒教を一体化した寺院で、三教殿という一番高いところにある一室に釈迦、老子、孔子の像を一緒に安置しています。こんな寺院は今まで見たことも聞いたこともなかったので、とても驚きました。教授は他にも考えられていることがあるようで、北魏という時代から思うに、当初は仏教だけだったのが、後の時代に他の宗教が付加されていったのだろう、と言われました。最初は三仏寺投入堂のような小さな仏堂であったのが、宗教の合一にともなって、規模を大きくしていったのではないか、という推測です。ところで、雲岡石窟と懸空寺はいずれも北魏の仏寺なので、石窟と懸造の寺院形式に前後関係をみとめることは難しいように思われます。ところが、エアポートさんが以前報告したように、日本では、石仏を祀る岩窟の正面に懸造の木造建築を付加することで懸造が発生するという見方もあるようです。
学生たちはただ懸空寺のアクロバッティックな構成に酔いしれ、ぱちぱち写真を撮っているだけでしたが、教授は高所恐怖症で「怖い、こわい」とおびえたそぶりをみせながら、懸造背面に岩窟があるかどうかをひたすらチェックされていたことがあとで分かりました。
結果は「無」です。仏を収納して祭祀する小さな岩窟は懸空寺には存在しませんでした。崖を掘削しているのは、仏堂背面の通風道のためのものであって、決して仏龕のためのものではありませんでした。したがって、懸空寺における懸造形式は、仏龕としての岩窟と複合化していないことがあきらかです。
一方、雲岡石窟の場合、石窟の前面に木造建築が建てられるのが一般的で、「木造建築=礼堂(外陣)、石窟(内陣)」という役割分担が顕著です。この場合は、ときに懸造にもなる木造建築はあくまで礼拝堂であって、仏像を納める空間ではありません。
日本の場合、さらに若桜の不動院岩屋堂のように、岩窟に本堂を納めてしまう場合もあります。注目したいのは、投入堂・懸空寺・岩屋堂はすべて木造建築が仏像を納める空間になっていることです。こういう違いに着目して、岩窟・絶壁型の仏教建築を、かりにではありますが、以下の3つのタイプに分類してみました。
1)初期岩窟型: 隠岐道後「壇境の滝」のように絶壁に小さな岩窟をあけ、
中に石仏を納めるタイプ。
2)岩窟・懸造複合型: 絶壁にあけた岩窟の正面に懸造を設けて礼堂とする
タイプ。石窟寺院はこのタイプに近い。日本では、
鰐淵寺蔵王堂・蔵王窟がこの例?
3)懸造型: 岩窟はなく、崖に懸造の仏堂をつくり、仏像を納めるタイプ。
隠岐、出雲、伯耆を巡り、さらに雲岡石窟と懸空寺を視察したことで、仮説ではありますが、上の3タイプを設定できたのは大きな収穫でした。今後も類例を探し求めていきたいと思っています。(黒帯)
- 2009/09/07(月) 10:03:54|
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