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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

晋の道 -山西巡礼(Ⅴ)

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円仁の風景(ⅩⅡ)-五台山巡礼

 9月3日夕刻、五台山に入山した。円仁が在唐9年間のなかで最も長く滞在し修行した仏教の聖地である。これまで「円仁の風景」シリーズで数おおくの場所や寺社をとりあげてきたが、山陰各地の諸寺については、円仁が確実に開山・再興に係わった証拠がなく、いうまでもないことだが、比叡山以外では五台山が最も重要な位置を占める。
 天候はあいにくの小雨。平野部では晴れていても、標高約2500mの台懐鎮は雲に巻かれていることが少なくない。標高こそ違うけれども、「比叡山の煙雨」を彷彿とさせた。五台山は山西省忻州地区五台県の東北部に位置し、五つの山(東台・西台・南台・北台・中台)の峰が台懐鎮を囲むように連なっている。五台山の地皮は薄く、樹木の生育を阻んでおり、それが山嶺を「台」のようにみせる。五台山には現在47の寺院が境内を構える。9月4日に主要伽藍の集中する台懐鎮の中部と南部を巡礼した。

1.台懐鎮中部の古刹

P1010911.jpg 前夜の予定では、108段におよぶ菩薩頂の参道を徒歩であがり、境内に入る予定だったが、あいにくの天候のため、門前までバスで移動した。菩薩頂は、北魏孝文帝(在位471-499)の時代に創建され、明の万暦年間に再建された。もとは文殊菩薩の道場だったが、永楽帝(在位1402- 1424)のころからモンゴルとチベットのラマ教信徒が五台に入り、大ラマが菩薩頂に居住するようになったことから、本寺が五台山におけるラマ教寺院の首位となった。明代から境内の拡張が進み、清代にいたっては清朝の少数民族懐柔政策によって大いに栄え、建築も清の様式に刷新されていった。視察中、幸運にも、大雄宝殿でラマ僧の集団読経に接し、一同その姿にみとれてしまった。このように、五台山は中国仏教とラマ教(チベット仏教)の寺院が共存しており、漢族だけでなく、チベットや青海省から少数民族が参拝に訪れている。

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 菩提頂の空門をぬけて石段を下り、顕通寺と塔院寺へ。いずれも台懐鎮の中心に位置する主要伽藍で、とりわけ顕通寺は五台山のなかの「五大禅寺」の一つで、なおかつ「十大青廟(漢族寺院)」のトップとしてあまりにも有名である。巨大な煉瓦造の「無量(梁)殿」(明代)や壁面に1万体もの仏が祀られた金色の「銅殿」(明代)は圧巻。明日、顕通寺と塔院寺については、同行した部長さんが詳しく述べるので、お楽しみに。もちろん、円仁の『入唐求法巡礼行記』にも登場しております。
 ちなみに、塔院寺の大白塔の下で、はじめてマニ車を体験した。マニ車を右回転でまわしながら、塔のまわりを3周する。ガイドの田さんによれば、1回目は家族のこと、2回目は友人のこと、3回目に自分のことを祈りながら経筒をまわすとのこと。わたしたちは時間の余裕がなく、それぞれの思いを胸に1周だけした。

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 塔院寺から南に約500m下ると、元代創建の殊像寺がある。現在の堂宇は明の弘治~万暦年間の再建にかかる。顕通寺、塔院寺、菩提頂、羅候寺とともに五大禅場の一つに数えられ、また青廟十大寺院の一つにも数えられている。空門をぬけると真正面に文殊閣があり、五台山最大の文殊菩薩像が祀られている。これは文殊騎獅像とも呼ばれ、文殊菩薩が獅子にまたがっており、像の高さは9.3mもある。

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 以上、中部の4寺を午前中に視察し、午後は「続き」に示す南部の2寺を視察したあと、時間に余裕があったので、台懐鎮では最も高い山頂に境内を構える黛螺頂をめざした。黛螺頂へあがる階段は、1080段! 菩薩頂と龍泉寺の10倍ある。聞いただけで、煩悩がわきおこってきそうだが、五台山を訪れた記念として登ってみようということになった。伯耆巡礼の大山登山とはまたわけが違う。20分前後の山登りだったが、それなりの苦しさを伴った。それでも何とか頂上に一番乗りすると、五台山台懐鎮の風景が一望でき、そのパノラマにすっかり心が洗われた。黛螺頂は、明の成化年間(1465-1488)に創建され、万暦年間と清康煕・乾隆帝の代に再建・補修された。悪天候で五台登頂を果たせなかった乾隆帝の命により、境内には五台の本尊たる5体の文殊菩薩を祀っている。このため、黛螺頂に登ることを「小台山参拝」という。私たちも小台山参拝を果たしたわけだ。

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2.台懐鎮南部の古刹

 昼食後、バスに乗って台懐鎮南部の竹林寺に移動した。円仁が修行した寺である。『入唐求法巡礼行記』によれば、円仁は840年に竹林寺を訪れたのち台懐鎮南部の金閣寺で霊仙三蔵の事跡を偲んでいる。霊仙三蔵は最澄・空海と同年輩で、南都興福寺から唐にわたり、台懐鎮の金閣寺で修行した僧である。竹林寺は文化大革命によって壊滅的な被害をうけ、歴史的建造物は明弘治年間の白いに舎利塔しか残っていない。と聞いていたのだが、驚いたことに、境内全域におよぶ復元工事が進んでいた。その様式は「唐代」だというから、まさに円仁がいた時代の建物を復興しようとしているのだが、詳細については黒帯くんのレポートに譲りたい。

 竹林寺から1kmほどバスにゆられ、龍泉寺に到着。龍泉寺は九龍崗の山腹に位置することから、九龍崗寺とも呼ばれている。境内の脇に「龍泉」という湧水地があり、龍泉寺という名を得た。龍泉寺は宋代に創建され、清末に重修された。照壁には五台山の寺院配置を描いたレリーフが刻まれており、そこに「仏母堂」という岩窟を発見した。ついに五台山でも岩窟を発見したのか、と狂喜したのだが、明代以降の寺院の一部らしく、わたしたちが日本でみてきた岩窟とはおそらく背景が異なるものだろう。また、スケジュールにも隙がなく、訪問を断念した。

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 五台山は2009年6月に世界文化遺産に登録されたばかりである。対象は五台山の仏教寺院の全体である。台懐鎮にある菩薩頂、顕通寺、塔院寺、翌日訪問した台外の仏光寺、南禅寺など国家の重点文物保護単位(日本の重要文化財・国宝に相当)でだけではなく、龍泉寺、殊像寺、黛螺頂などの省級文物保護単位や未指定の寺院もすべて世界文化遺産として評価された。国家級だけでなく、省級以下の文化財を世界遺産とみなす点については異論もあるだろうが、五台山の場合、その地域全体が中国を代表する仏教遺産の「史跡」とみなせるだけに、わたしはこの判断を支持したい。じつは、五台山の自然についても、中国は研究を進め、自然と文化遺産を一体化して「世界複合遺産」をめざしていたのだが、自然に関してはユネスコから高い評価を得る見通しが得られず、申請を断念した経緯があるらしい。
 五台山の自然についての評価がさておき、五台山の自然と文化遺産を総合的に評価しようとする取り組みの姿勢については、日本もみならうべきところがないとはいえないだろう。その取り組みの経過を日本に紹介することができれば、これ以上のことはないだろう。 (Mr.エアポート)

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  1. 2009/09/09(水) 00:20:30|
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