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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

晋の道 -山西巡礼(Ⅵ)

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円仁の風景(ⅩⅢ)-大花厳寺と大白塔

 昨日の五台山巡礼行程のなかで最も重要な位置を占める顕通寺と塔院寺について、少し詳しくレポートしておきます。

1.顕通寺

 顕通寺は五台山の寺院が集中する台懐鎮の中心地に境内を構えています。寺伝によると、顕通寺が創建されたのは後漢時代の永平11年(68)。中国に仏教が伝来した後漢時代、当時の都、洛陽(河南省)に最初の寺院「白馬寺」が創建されます。寺伝が正しいならば、その翌年、顕通寺が創建されたことになります。台懐のある山の姿がインドの霊鷲山に似ているので「霊鷲峰」と命名し、その前方に「大孚霊鷲寺」を建立したというのです。
 『古清涼伝』によると、北魏の太和年間(477~499)、孝文帝が五台山を訪れた際に霊鷲寺を再建し、寺院の前に花園があったことから「花園寺」とも呼ばれるようになりました。唐の則天武后(在位690~704年)の代に「大花厳寺」と改称され、明の太祖の時に重建されて「大顕通寺」の額が下賜されました。万暦34年(1606)には一旦「永明寺」と改称されましたが、清の康煕26年(1687)に「大顕通寺」に戻りました。1982年2月、全国重点文物保護単位に指定されています。

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【無量殿】

 顕通寺の伽藍には中軸線上に7つの仏堂が建てられていますが、なかでも大雄宝殿(木造)、無量殿(磚造アーチ式)、銅殿(真鍮製)の3堂が有名です。大雄宝殿(↑↑一番上の写真)は顕通寺の正殿であり、清の光緒25年(1899)に再建された建物。単層裳階付の重檐で、大屋根は四阿(寄棟)ですから故宮太和殿と同形式ですが、礼堂ともいうべき外陣を附属させています。外陣も重檐ですが、大屋根は棟に熨斗瓦のない「巻棚」の切妻造。二つの建物が並列しているので、一種の双堂(ならびどう)とも言えますが、前後2棟の軒を接して樋で雨水をうけるのではなく、外陣後面屋根の軒を内陣正面の大屋根の上に被せ、内陣の軒から雨水を落とすようにしています。頭貫の上に組物はなく、通肘木を多用する校倉造のような構造となっています。
 大雄宝殿の背後にたつ無量殿は、ほんらい「無梁殿」と書くべき建物です。無梁殿とは「梁のない建物」を意味しますが、それは磚造アーチ式構造のことです。焼成レンガ(磚)をアーチ状に積み上げた構造で、教授によると、南京に古い遺構があるそうです。顕通寺の場合、無量寿経の「無量」が「無梁」と同音なので、一種の掛詞にしたのでしょう。
 無量殿は明の万暦34年(1606)に建立され、崇禎9年(1636)に重修されました。外観は単層裳階付に見え、三手先の組物を詰組にしてびっしり並べています。無量殿の後方に鎮座するのが銅殿です。こちらも明の万暦34年(1606)の建立。入母屋造の重檐で、単層裳階付。内部には真鍮製の小仏が一万体納められてるとか。

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【銅殿】


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2.塔院寺

 塔院寺は顕通寺に隣接しています。明の万暦17年(1589)、皇帝が顕通寺境内の塔を大きな白塔に重修した際、「大塔院寺」の額を下賜し、それを機に顕通寺とは別の寺院となりました。2006年5月25日に全国重点文物保護単位になっています(世界遺産登録を意識しものでしょう)。ここで目を引くのはなにより塔です。台懐のひろい範囲から望める「大白塔」。仏教の伝承によれば、インドのアショカ王(在位:前268~232年)が8万あまりの仏舎利を各地に送り、ストゥーパ(塔)を建てて珍蔵しました。中国には19基送られ、五台山ではこの塔の下に仏舎利が安置されていると伝えられています。円仁はもちろんこの塔をみています。『入唐求法巡礼行記』によれば、当時の「大白塔」は高さ75.3メートル、周囲83.3メートルとありますが、実際の高さは56.4メートルです。上に述べたように、明万暦年間以前はもっと低かったわけですから、円仁の記載は間違っていたことになります。唐の時代から高い塔であったのは間違いないでしょうが、円仁がその高さを測定できたわけはありませんから、おそらく耳で聞いた高さをそのまま記録にとどめたのでしょう。建物の高さを実際よりも高く強調する点については、出雲大社の論争が思い起こされました。
 大白塔の背面には「蔵経殿」があります。切妻の重檐。組物は、一重が尾垂木付きの出組、二重と腰組はいずれも二手先としています。中に入ってみると、一重の天井の中央がぽっかりと開いていて、そこに八角形で32段の仏像や経典を納める塔のようなものが下から上まで収まっていました。

 円仁が入唐した838~847年、顕通寺・塔院寺はひとつの寺院であり、「大花厳寺」と呼ばれていたはずです。すでに寺名は変わり、建造物も明清時代のものばかりになっていますが、大白塔を中心とする台懐鎮の風景を体感できたことはなによりの収穫です。
 いま眺める台懐鎮の諸伽藍は漢族式の木造建築が圧倒的に多く、焼成レンガ(磚)の円塔はわずかしかみられませんが、円仁のいた時代はもっと積極的にインドの仏教文化を輸入していたはずですから、唐代にはもっとストゥーパ式の塔がたくさん建っていて、中国の木造建築と対比的な風景を織りなしていたのではないか、という気がしてなりません。『入唐求法巡礼行記』を精査して、当時の五台山の「風景」を復元的に検討してみる必要があるでしょう。

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↑大白塔初重のマニ車

  1. 2009/09/10(木) 00:57:29|
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