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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

晋の道-山西巡礼(Ⅶ)

竹林寺内部


円仁の風景(ⅩⅣ)-竹林寺から南禅寺・仏光寺まで

1.竹林寺復興

 『入唐求法巡礼行記』によれば、円仁が五台山の竹林寺にいたのは承和七年(840)5月1日から16日までの16日間。1週間前、日本から天台宗の僧がツアーで竹林寺を訪れ、法要をしたばかりとガイドの田さんから教えられていたので、いまでも法要をおこなえる伽藍はいったいどのようなものなのか、と期待に胸を膨らませていたのですが、その実態は工事現場でした。

竹林寺1 円仁が五台山に滞在したころ、竹林寺は五会念仏(念仏の調音を五種類に分別した音楽的な唱名法)の中心道場として栄えていました。その五会念仏に魅了された円仁は帰国後、比叡山に常行堂を建立して五会念仏(引声念仏)の普及を図ったといいます。円仁が修行にやってきた時には、六つの「院」があり、それぞれの院には40人もの僧侶が生活をしていたというから、とても大きな寺院だったと思われます。しかし、上に述べたように、4日午後に訪問してみると復元工事の真っ最中で、当時の風景を想像することはまだできません。円仁ゆかりの手がかりをなにか見つけられないかと奥に進んでゆくと、復元されつつある大雄宝殿の裏側に「日本天台入唐求法沙門円仁慈覚大師御研鑚之霊跡」と刻まれた石碑を発見。日本の天台宗の僧侶が昭和17年に建てた石碑です(「続き」の一番下の写真)。
 ほかに何かないものかと辺りを見渡すと、復元工事の進む戒壇が目につきました。円仁の弟子が竹林寺の戒壇で「戒律を受けた」という記述が記憶に残っていたわたしは、建設中の戒壇を見て、本当に円仁が知る戒壇の姿に復元してほしいと思いました。

 文化大革命で境内の文化財の99%が破壊された竹林寺の実態を目の当たりにし、一同途方に暮れていましたが、まもなく教授が気をとりなおして提案されました。

  「せっかく竹林寺を訪れたのだから、円仁が過ごした時代の建築に想いをめぐらせてみよう。
  復元中の大雄宝殿は唐代の様式に復元しているようだが、わたしの目からみて違和感を
  感じないわけではない。いまは復元建物を精査し、明日訪れる南禅寺・仏光寺大殿と比較
  してみよう。」 

 こういう意識をもって、翌5日、南禅寺と仏光寺の古代建築を視察することになったのです。 

仏光寺大殿全景


2.仏光寺大殿・文殊殿

 円仁は五台山を出発した後、仏光寺近くの道を通ったそうです(立ち寄ってはいません)。そんな仏光寺の開山は北魏に遡り、祖師塔と呼ばれる北魏時代の密檐式磚塔が境内に残っています。現存する大殿は唐代857年に建てられたもので、中国で2番めに古い木造建築です。
 大殿へ上がる階段の両側にヤオトンを見つけたのですが、元は崖をくり抜くだけの土だらけのものが、境内の中でもあり、壁面や天井も綺麗にコートされていました。それにしても、寺の敷地内にヤオトンがあるなんて面白いですね(境内の外側の絶壁にもヤオトンがいくつかみられましたが、すでに廃墟と化した模様です)。階段を上り、さっそく大殿を観察し、考察を始めました。いつもように、教授が「なんでもよいから、大殿の特徴を一言ずつ述べなさい」と問われ、4人の弟子が順番に答えていくのです。それを3巡くりかえしました。

仏光寺大殿(軒下) 大殿は間口7間、奥行4間。平屋の入母屋造です。組物は柱上が四手先で、壁付き部分はすべて通肘木にしていますが、秤肘木(はかりひじき)状の浮彫を施しています。この点は、大同でみた善化寺大殿(金代)や次に取り上げる南禅寺大殿(唐代)でも同じです。おもしろいのは、頭貫上に中備がないことです。頭貫と一段めの通肘木のあいだは白い壁塗りとなっているにも拘わらず、一段目の通肘木の上には二手先の組物がのっているのです。構造的にはきわめて不安定であり、おそらく中備の二手先を支持する束が小壁の内側に隠されているのだろうと推定したのですが、後にその反例にであうことになります。
 中備の二手先は丸行手前の軒小天井を受ける桁を支えていて、一手目の肘木には大仏様繰型のような形の装飾がみられました。壁付の通肘木は千鳥状に配された巻斗で上下の材を繋いでいます。ここでもやはり素朴な「校倉造」風の構造をみてとれると言ってよいでしょう。
 内部は虹梁の上に蟇股を半分にしたような材をおいて斗をのせ、上側の虹梁をうけています。二重虹梁蟇股のバリエーションとして理解できますが、二重虹梁の上に豕叉首(いのこさす)を組み上げています。堂内側の組物は三手先です。大仏様や法隆寺金堂と共通する「手先にひろがりのない」タイプの組物です。唐招提寺以降の仏堂に常用される曲線的な支輪はなく、直線的な材を使っています。

仏光寺(文殊殿) 続いて文殊殿。金代1137年に建立された仏堂です。平屋の切妻造。組物は二手先で通肘木と丸桁を同じ列に持ってきていることが確認できました。中備に斜供を採用していますが、真ん中の斜供が長く、隅に行くにしたがって少しづつ短くなっています。中国建築の場合、柱間寸法が均等ではなく、中央間が一番長く、脇間、端間といくにつれて少しずつ短くなるため、斜供の長さも変わるのです。双林寺など他の寺院の諸堂を見学した結果、斜供は明清代まで受け継がれていくことが分かりました。
 さて、中備の斜供も二つの尾垂木をもつ二手先にみえますが、上下の尾垂木が平行ではなく、上側の材はほぼ水平となっています。内側と材の対応関係を確認すると、尾垂木は下の1本で、上側の材は水平材の木鼻にあたることが分かりました。軒は一軒丸垂木です。
 内部は、強烈な「減柱法」によって大空間を確保しています。菩薩像や法会のための空間をひろくとりたいのでしょうが、長大な梁を何本もかけていて、構造的に大丈夫なのかと不安になるほどです。小屋組には豕叉首を使っています。教授が1990年代に訪問された時には、文殊殿の腐朽・劣化が著しく、大殿よりも危険な状態にあったとのことですが、すでに修理を終えて健全な姿に戻っていました。

仏光寺1



南禅寺1


3.南禅寺大殿

南禅寺大殿(軒下) 唐代建中三年(782)年の建築。寺の規模は小さいですが、大殿は中国に現存する最古の木造建築であり、845年の廃仏毀釈を免れられたのは小寺であったためだとされています。建築年からみると、唐招提寺金堂の同期生のような建物ですが、南禅寺大殿のほうが後世の改修が少なく、よく古式をとどめています。なお、円仁は南禅寺に立ち寄っていません。
 平面は方三間。組物は二手先で、通肘木に秤肘木の浮彫を確認できます。南禅寺大殿にも頭貫の上に中備がありません。構造はきわめてシンプルであり、二重虹梁上に叉首を組んで棟木を承けています。軒は一軒丸垂木。軒小天井も軒支輪もありません。内部に天井はなく、完全な化粧屋根裏で、屋根勾配はとても緩いのですが、唐招提寺金堂や法隆寺夢殿なども鎌倉時代以降の修理・補強以前はこのように緩い屋根をしていたはずで、想わず「天平の甍」の原型をイメージしていましました。
 同じ唐代建築として、仏光寺大殿との違いを挙げるとすれば、規模の違いも要因かも知れませんが、以下の諸点を指摘できるでしょう。

  1)仏光寺大殿の内部には天井がありますが、南禅寺大殿には天井なく、完全な
   化粧屋根にしていること。
  2)仏光寺大殿には軒小天井と直材としての支輪らしき材がありますが、南禅寺大殿
   はいずれもないこと。
  3)小屋組は南禅寺大殿が叉首組であるのに対し、仏光寺大殿は豕叉首となっている
   こと。

 以上の差異は、唐代建築の古い要素を示すもといえるでしょう。そういえば、南禅寺の連子窓は奈良時代の日本建築とよく似ていました。連子子を菱形のように並べているのですが、南禅寺の場合、連子子の断面は直角三角形で、日本のような四角形ではありませんでした。

人字形斗供
【竹林寺の人字形斗供】


4.世界遺産登録と復元建物

 南禅寺と仏光寺は五台山を代表する古代建築と思われていますが、じつは両寺の所在地は五台の外にあります。五台山の周縁にあるという言い方をするのが妥当でしょう。しかし、もちろん今年度の世界遺産登録ではこの両寺を含まないわけにはいきません。
 問題の竹林寺大雄宝殿の唐代様式復元においても、南禅寺大殿と仏光寺大殿を最も参考にしたのでしょう。ところが、だれしも気になるのは、頭貫上の中備に人字形斗供を配していることです。その形をみた瞬間、教授は、「頭貫と通肘木の間隔が長く、人字形のカーブが緩い」と感想を述べられました。学生たちはなんのことやら分からなかったのですが、最終日に太原で天龍山石窟を視察し、東魏・北斉時代の人字形斗供をみるにつけ、その意味を理解するようになったのです。結論から述べると、竹林寺大雄宝殿の人字形斗供は天龍山石窟の様式に倣っているのですが、初唐の古墳壁画や西安の大雁塔楣(まぐさ)石に線刻された仏堂図にみえる人字形斗供はもっと反り上がっているのです。ですから、竹林寺大雄宝殿で唐様式の人字形斗供を使うなら、もっと反りのきついものにすべきであり、そのためには頭貫と通肘木の間隔をやや詰める必要があるということです。
 しかし、ここは五台山です。近隣に南禅寺大殿・仏光寺大殿(さらに鎮国寺万仏殿[五代])という絶好の類例が存在するのですから、竹林寺大雄宝殿では人字形斗供を中備に使うべきではなかったのではないでしょうか。頭貫上の「中備なし」が正解だということです。というよりも、ほとんど根拠のない復元を実施すること自体に反省を求めるべきかもしれませんね・・・(黒帯)

竹林寺3


  1. 2009/09/13(日) 00:15:47|
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