世界文化遺産「古都平遙」(Ⅰ)-平遙古城 9月4日、五台山巡礼を果たした一行は、道中に中国最古の建築を訪れ、太源を経由して「平遙古城」へと辿り着いた。ここにいう「城」とは都市(まち)のことである。
平遙古城は山西省晋中市平遙県に位置し、その城壁もさることながら、城内の都市計画も含めて明清代の県城の姿をよくとどめており、西安古城(陝西)、荊州古城(湖北)、興城古城(遼寧)とともに中国四大古城としてよく知られている。平遙古城および城外周辺の鎮国寺・双林寺(共に全国重点文物保護単位)を含めた一帯は、「古都平遙」として1997年に世界文化遺産に登録されている。鎮国寺と双林寺については、後日のエアポート君にお任せするとして、私は平遙古城について報告させていただきたい。

5日。平遙古城に到着するころには、すでに午後6時をまわっていた。城内の見学を翌日に控え、さっそく宿泊する「徳居源客桟」に向かう。到着して、ロビーと食堂を併設した部屋を抜けると、そこには縦割りの区画に院子(中庭)があり、院子を囲んで宿泊棟が配置されていた。「四合院」だ。四合院は中国における伝統的住居形式の典型で、主な特徴として、院子(中庭)を中心とした対称形の平面と閉鎖中庭型の配置があげられる。分布の範囲は全国に広がっているが、華北の四合院に対して、華南の三合院というイメージがある。

ガイドの田さんによると、城内には四合院形式の建物が3700棟近く存在し、その多くは明・清代のもので、一部には元代のものも含むという。ちなみに、今回のホテルのように、改装して宿泊施設に転用しているものは100棟近くあるそうだ。
今回のホテル「徳居源客桟」に限って言えば、内部の華やかな彫刻からして清代の建物であるのは間違いなかろう。正房・廂房はすべて客室に改装され、門房をロビーと食堂に利用していた。院子には椅子とテーブルを持ち出し、そこでも食事が出来るようになっている。私たちも院子にテーブルを並べて、教授の持ってきた柿ピーと、高価な中国産ワイン(円高のため、ドル紙幣を持て余していた教授のポケットマネーでご馳走していただいた)を堪能した。これがじつに心地よい空間で、こうした中庭の空間利用は、日本の町家においても応用可能であろう。

また、部屋には炕(カン:ベッド状のオンドル)を備えており、客用のベッドとしている。寒くなると、炕は必要不可欠の暖房となるが、今回はもちろん熱を帯びていなかった。寝心地は悪くない。左の写真を見てお気づきの方もいるだろう、今回のベッドはツインではなく、いわゆるダブルベッドであった。伝統的な用語では「大床」とか「八脚床」というらしい。黒帯君と相部屋の私は、一抹の不安を抱きながら床に就いたのだが、彼は自身の卒業研究に大きく関係する五台山の巡礼を終えたこともあり、あまりの疲労にベッドまでたどり着くことができず、椅子の上で一夜を明かしてしまったそうだ。チェックアウトの際、「オンドルの感触だけでも・・・」と、ゴロリと横になったその顔は満足そうであったが・・・


さて、古式の中国旅館にて疲れを癒した翌日、午後には場外の鎮国寺や双林寺への拝観を予定していたため、あいにくの雨模様のなか足早に城内を周った。
まず訪れたのは、城壁である。平遙古城の城壁は、西周の宣王時代(前827~782)に築かれ、その後合計26回の増築工事がおこなわれて現在に至る。現状の規模に整備されたのは、明の洪武三年(1370年)のこと。ちなみに、この城壁も全国重点文物保護単位である。
城壁の規模は、ほぼ正方形で周長約6.4キロメートル、高さは約10メートルを誇り、その構造は城内側を版築、城外側を磚造としている。さらに、「馬面」とよばれる控え壁が城壁の外側に垂直方向に突き出ている。いわゆるバットレス構造で、構造的に重要な役割を果たすと同時に、馬面上に「敵楼」と呼ばれる櫓が置かれ、防御の役割も担っている。城門は、南北にそれぞれ1基、東西に2基ずつ配され、各門上には「城楼(明代)」と呼ばれる2層入母屋造裳階付の楼閣建築が建てられている。
城壁上から望む平遙の町並みは、雨で遠方を見渡すことができなかったが、霧の中に浮かぶその光景は、広大であることを想像させた。
城壁から「馬道」と呼ばれる階段を降り、街中へと足を運ぶ。街中では、清代の楼閣建築である「市楼」や、中国金融業界の祖となった銀行「日昇昌」(ともに省級文物保護単位)、明代より続く造り酒屋の「長昇源」(県級文物保護単位)などを中心に、裏路地を含めて周辺を徘徊した。


平遙のメインストリートである「南大街」では、おそらく修景整備されたであろう町並みの中に、ファサードを日本で言う「看板建築」にしているものや、厨子(つし)2階に虫子窓を備えたようなものも軒を連ね、日本の町並みを連想させる。
ただ、一歩路地へ足を踏み入れると、そこは華北特有の生活のにおいの感じられる空間が残されている。個人的には、こういったリアルな町並みのほうが好きだ。
私はこれまで、倉吉の白壁土蔵群や、島根県太田市の石見銀山などの重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建)の調査に関わる機会があった。そういった歴史的な町並みを訪れて感じるのは「観光」と「生活」という、相反する2要素の混在である。
2要素の矛盾を解消するのは簡単ではないが、たとえば太田市大森町(石見銀山)の重伝建内では地区住民への配慮もあり、観光客の車の入場を禁止している。

ここ平遙でも、城内は観光バスなどの大型車両の入城を禁止しており、さらに主要な区画については時間制限を設けて全車両の進入を禁止する措置を設けている。また、場内の小型車量には、電気自動車が使われており、環境面での配慮も見受けられた。日本とは規模が異なるので一概には言えないが、参考しうるべき点であろう。
ただ、これまでのケース同様、平遙においても世界遺産登録のための大規模な環境整備がおこなわれたと聞く。登録以前は城内に10万人もの人が生活していたが、現在はその半数にも満たない3万人にまで減少しているそうだ。教授によると、90年代ころまでは中国全土の大型民居は複数の世帯が共有する集合住宅と化していたそうで、おそらく町並み環境整備にともない、一つの民居に一世帯という改変が生じ、他の世帯は郊外に新設された高層集合住宅に転居していったものと推定される。この街は、ここ数年の間にどのように変わっていったのだろうか?自分に語学力があれば、そんなことを住民の人たちに聞くことも出来るのだろうが・・・
雨の降らない黄土高原に居ながら、晴れそうにない曇り空の中、そんな想いを胸に平遙古城を後にした。(タクオ)
- 2009/09/14(月) 00:21:23|
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