天龍山石窟 太原の晋祠を訪れた後、その晋祠の背後にそびえる天龍山へ登り、一路頂上付近の天龍山石窟へ。山道を登れば登るほど、周囲には霧が立ち込めてしまい、本来ならば眺めがよさそうな場所からも、麓の様子がまったく見えないほど。ここでも「
煙雨」に再会してしまいました。車で30分ほどかけて到着すると、10数メートル先が見えなくなるほどの真っ白な世界で、とても寒い! そんななか、谷筋を石窟目指して降りていきます。雨の影響か道はところどころ川のようになっていて、歩くのも一苦労。ようやくたどり着いたのは、天龍山石窟で最も大きい西峰の第9窟でした。
天龍山石窟は天龍山の東西両峰の間にあり、全国重要文物保護単位になっています。『晋祠』(2007年)によれば、天龍山石窟の始まりは今からおよそ1500年前の東魏(534~550)まで遡ります。東魏の丞相だった高観の避暑宮として聖寿寺が造営され、石窟の開鑿も始まったと伝わっています。その後、隋、唐、五代まで約500年に渡って開鑿され続けました。この時期は中国の石窟芸術・技術発展のクライマックスだったようです。雲岡石窟は北魏の興安2年(453)頃から掘削され始めたので、天龍山石窟は雲岡の約100年後から掘削されだしたことになります。
石窟は全部で25窟あり、その中でも第1窟、第2窟、第3窟、第10窟、第16窟は東魏から北斉時代の間に作られました。この5窟すべてを見てはいませんが、これらの石窟は古風で質朴でありながらも華麗広壮であるとのことです。さらに、天龍山で目を引くのは第9窟だと『晋祠』には紹介してありました。

その第9窟にたどり着くと、霧の中に建物が姿をあらわします。これは第9窟の前面に建てられた「漫山閣」です。中に入ると巨大な4体の仏像が出迎えます。上層には坐像の弥勒菩薩像、下層正面は十一面観音菩薩、左は獅子に騎乗した文殊菩薩、右は象に騎乗した普賢菩薩が立ち並んでいます。上層の弥勒菩薩は坐像でありながらも約8メートルの大きさで、さらに下層の十一面観音菩薩は約8.8メートルもあります。
第9窟から続く崖沿いには西峰の石窟が並んでおり、どの石窟も同じように方形にくりぬかれています。そして、くりぬかれた入口以外の3面(正面・左・右)に仏像を彫刻しているのが、この天龍山石窟の特徴でもあります。また、多くの石窟の外側に垂木や桁材などの痕跡と見られる穴がたくさんあり、第9窟の漫山閣のように元は何らかの建物が存在していたのでしょう。第9窟も少し古い資料などを見ると今回見られた建物がなく、仏像が露出している写真が掲載されていました。石窟の中を見ると、多くの仏像は悲しいことに破壊されており、頭部のない像が並ぶ様子は異様に感じました。ガイドの田さんによると、20世紀初め頃に多くの仏像の頭部が、日本や欧米に流出してしまったといいます(関野、水野、長尾などの名前が田さんの口から続々でてきて、先生はそれを聞く度に苦い顔をされていました)。幸い第9窟の上段に鎮座する弥勒菩薩は無事だったそうですが、下段の観音菩薩なども首が奪われ、現在はレプリカが据えられているとのことです。

【岩に食い込む第9窟の漫山閣(右)と建築材の痕跡が見られる第10窟(左)】

ところで、この天龍山石窟を訪れたのは、どうしてもみておきたい石窟があったからですが、その石窟がなかなかみつかりません。西峰での探索をあきらめ東峰へ向かおうとすると、奥の方から「発見!」の声。声のする方へ、西峰の崖沿いを奥へと進むと、目的の第16窟が姿をみせます。『中国建築史 第5版』(2003年発行)によると、第16窟は北斉の皇建元年(560年)に開鑿され、石窟前面には3間の回廊があります。断面が八角形の柱2本の上部には大斗(皿斗か?)、その上に通肘木状の横材。そして、平三斗が柱頭部と中備の位置に合わせて3つあり、その間に人字形斗供がありました。あきらかに木造建築を模倣したものですが、これがすべて石で作られた彫刻ですから、驚きです。
さて、第16窟視察の何が目的だったかというと、これまで何度か登場してきた「人字形斗供」です。第16窟の人字形斗供は雲岡でみたような直線的なものではなく緩くカーブがついていて、まさに「人」の字形をしています。雲岡石窟は北魏時代の建築様式を知ることのできる資料でしたが、こちらは北斉時代の建築様式を知ることができる資料です。約100年違うだけで、人字形のカーブがこんなにも変化するということを実際にみることができました。
また、黒帯君のレポートにもありましたが、竹林寺大雄宝殿の唐代様式復元での人字形斗供と、天龍山石窟第16窟の人字形斗供は、確かにカーブの具合などがよく似ているように見えました。しかし、黒帯君の指摘でもあったように、天龍山石窟第16窟の人字形は北斉時代のものですから、竹林寺大雄宝殿の唐代様式復元の人字形が第16窟と同じというのはちょっとおかしいですね。

【左:雲岡石窟の人字形 中:天龍山石窟の人字形 右:竹林寺大雄宝殿の人字形】
一方、昨日の「太原の晋祠」でも指摘されているように、晋祠聖母殿の裏側に回ってみたとき小壁のない軒の組物を発見しました。そこでは、頭貫上の中備が存在しません。これまで南禅寺大殿や仏光寺大殿で頭貫と一段目の通肘木の間の小壁の中に中備として束が入っているはずだと推測を立てたり、鎮国寺万仏殿で中備の位置に思わせぶりな唐草模様の人字形がありましたが、晋祠聖母殿はその推測に一石を投じたことになります。聖母殿では仏光寺大殿のように二手先になっておらず、ただ上に巻斗を重ねているので束が使われていないのかもしれませんし、南禅寺大殿・仏光寺大殿や鎮国寺万仏殿においても、聖母殿のように束が使われていないのかもしれません。実際には中備の位置に本当に束があるのかどうかは、小壁の土をとってみなければわかりませんからなんともいえませんが・・・

このように中備ひとつとってもいろいろな実例が存在するので、竹林寺大雄宝殿の唐代様式復元もどのような形が正しいのか、難しい問題ですね。ですが、このような疑問を持てるほど、今回の中国山西省ではたくさんのすばらしい木造建築や石窟を見ることができました。この経験をさらに確かなものにするために、今後ますます知識を深めていきたいと思います。(部長)
- 2009/09/19(土) 00:21:56|
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