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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

ギターラの舞

『月間プレイボーイ』創刊号の顛末(Ⅱ)

 『月間プレイボーイ』創刊号に古田さん(仮名)のグラビアは含まれていなかった。
 (私はそこに載っていないのではないか、他の月ではないか)という彼女の杞憂は現実のものとなってしまったのである。
 中国山西の巡礼に旅立つ直前の8月末、思い切って古田さんに電話をかけてみた。「もしもし、古田さんですか」というわたしの声を聞いて、「あぁぁ、どなたなのか分かりましたよ」と彼女は答えた。お姉さんの看病に忙殺されていて、返事が遅れてしまったことを彼女は謝罪した。
 70歳とは思えぬ可愛い声、少し震えた声で話があるきはじめた。

 古田さんはモデルを専業としていたわけではない。彼女の本業はダンサーだった。もっと正確にいうと、バレリーナからダンサーに転身した方である。少女時代からクラシックバレーを学び、20歳のとき初めてパリに渡った。以来、パリと日本を往来していたのだが、30歳になって正式に帰国した。クラシックバレーでは食べていけないことを自覚し、モダンバレーとフラメンコに職業を切り替える。
 彼女は新宿東口のビル地下にある「ギターラ」という店でフラメンコを踊っていた。そこで秋山章太郎に見初められたのだという。それから、彼女は日劇ミュージックホールに打ってでる。そのことをとても恥ずかしそうに語った。

   「わたしはヌードじゃないんですよ。そういう方はまわりにいて、わたしは
   真ん中でモダンダンスを踊っていたんです・・・」

 どういうことかよく分からなかったのだが、問いつめるわけにもいかず、別の話題に移っていった。しかし、会話は螺旋を描いて日劇ミュージックホールに回帰し、彼女は恥ずかしそうに、少女のような震えた声で再び語り始めた。

  「日劇ミュージックホールの『ギャンブル』っていうダンスだったんですよ。
   『骨までしゃぶれ』なんてキャッチフレーズがついてましてね(笑)・・・わたしは
  真ん中でちゃんと服を着て踊っていたんです。わたしのまわりを黒服の男性が
  数名囲んで踊っていて、その外側におっぱいをだした女性のダンサーさんが
  いっぱいいたんです・・・イタリア人の男性が振付師でしてね・・・」

 いまネットを漁ってみたが、日劇ミュージックホールに関する情報は非常に少ない。ウィキペディアも書きかけの状態だが、その断片をつなぎあわせて解説にかえさせていただこう。

   昭和27年(1952)・・・、劇作家の丸尾長顕が日劇において設立。東宝の
   小林一三から「女性が見ても上品なエロチシズムの探求」という承諾を
   受けてスタートする。以降、数多くの優秀なダンサーたちや、コメディアン
   をそれぞれ輩出した。・・・・・・上演されるレヴューは主にトップレスの
   女性ダンサーによるものであったが、いわゆるストリップとは一線を画す。


 「ギャンブル」という上演物についてはさらに分からない。わずかにヒットした情報に頼るならば、『週間新潮』154号(昭和34年1月)の記事に、

  ★「大阪OS」初笑いヌードギャンブル 英国人ヌードが登場(サンディナイト)

を確認した。日劇ミュージックホールでないのが残念だけれども、大阪OSでは早くも昭和34年に上演されていたことが分かる。おそらくロングランのショーで、東西の劇場をツアーしていたのではないか。

 古田さんは日劇ミュージックホールで踊ったのが何歳のころか覚えていない。『月刊プレイボーイ』創刊号の発行が昭和50年、すなわち1975年であり、当時彼女は36~37歳だったはずである。
 パリから帰国したのが30歳のときで、「ギターラ」のフラメンコで写真家の瞠目を集め、それをステップにして日劇ミュージックホールのメインダンサーに駆け上がった。それとほぼ時を同じくして、『月刊プレイボーイ』のグラビア7ページを飾ったのだろう・・・論理的に推定するならば、それは37歳以降のことでなければならない。

 しかし、彼女は覚えていない。何歳のときに日劇ミュージックホールのステージに立ったのかを覚えていないのだ。

 話し合いの結果、『月刊プレイボーイ』創刊号はわたしの手元においておくことにした。古田さんが自分以外の女性のヌードで埋め尽くされた雑誌をもっていても何も楽しくだろうし、この創刊号にはわたしにとっても懐かしい想い出が詰め込まれている。なにより雑誌の構成と紙面デザインに驚かされた。
 平塚八兵衛のインタビュー、来日する小沢征爾のクローズアップ、ノーマン・メイラーのノンフィクション『ザ・ファイト』が中核にあり、そのまわりに「上品なエロチシズム」が散りばめられている。当時、ヘアーは解禁されていない。しかし、どのグラビアにも男は奮い立つだろう。そのものをみせるよりも、隠しながら想像させるほうがはるかに欲望をそそるという事実を改めて教えられる。
 商売柄、もっとも気になるのは紙面デザインで、とくに文字のフォント、ポイント、マージン、行間、段間などに目を奪われた。当時、イン・デザインとかクォーク・エクスプレスなどの編集ソフトはなかったはずだ。レイアウトは手作業でおこなっていたのだろうに、どのページも、文字通り、職人技のようなパーフェクトな仕上がりであり、このレベルなら21世紀でも突出した「大人の雑誌」の一つでありえただろう。
 それにひきかえ、2009年1月の終刊号はと言えば・・・内容・構成もさることながら、紙面デザインの劣化には目を覆うばかり。なにが集英社の編集レベルをここまで貶めてしまったのか。

  1. 2009/09/23(水) 13:09:10|
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