
目覚めたら時計の針は12時をまわっていた。ひとまず木曜日に講義を取っていないことに安堵した。十数日ぶりの熟睡だ。纒向遺跡の復元作業を始めてから、休日・平日問わず1日の平均睡眠は2時間以下だった。あとは、前回のようにメディアをにぎわすような事件が起こらぬことを祈るばかり・・・。
11月19日(木)、平成21年度全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会(第22回研修会 鳥取大会)がおこなわれ、浅川先生が「弥生時代の建築-青谷上寺地から纒向まで-」と題する特別講演をされた。会場には、全国の埋蔵文化財センターから約70名の出席者があり、研究室からは纒向遺跡の復元作業に携わったエアポート、部長、きっかわとタクオさんが参加。
前夜遅くまで、先生と学生とで講演の準備を進め、発表用スライドは優に130枚を超える大長編になっていた。構成は以下のとおり。
1.焼失住居の復元
2.青谷上寺地遺跡の建築部材と復元研究
3.纒向遺跡で出土した大型建物群の復元
-青谷上寺地の建築部材による応用研究-
前半の1は焼失住居跡の意味や復元プロセス、2は青谷上寺地遺跡出土部材による大型建物の復元研究。予稿集に沿ったお馴染みのプレゼンである。後半の3は、予稿集にまったく含まれていない纒向遺跡大型建物群の復元について。11日の報道後、超大型建物1棟だけでなく纒向遺跡で発見された4棟すべての復元にむけて研究室のメンバー総出で取り組んできたが、ついにその成果のお披露目を迎えたのである。

講演が始まると、先生の発言に対して相槌を打つ人、首をかしげる人とさまざまだが、みな真剣にスクリーンを見てはメモを取っている。研究室メンバーも負けずとペンを取り、これまでの作業を振り返る。スライドは次々と進む。スライドに登場する研究室で取り組んだ復元研究のほとんどは、私自身も関わってきたので、懐かしく思わないわけがない。先生や先輩たちの研究の手伝いをしながら、いろいろなことを学んだ。薄暗い会場で、その思い出はまさに走馬灯のように頭を駆け巡っていた。

講演の終盤、纒向遺跡建物群の復元CGが続々あらわれると、会場はどよめき、スクリーンに向けてデジカメのフラッシュが乱れ飛んだ。なんだか、自分たちの仕事が報われたような気がして、研究室のメンバー同士、顔を見あって喜んだ。これもまたお互い良き記憶の一つとして残るだろう。先生の特別講演は予定時間を30分以上超過して終わった。先生の講演は、予定時間よりも短いほうが多いのだが、この日ばかりはそうはいかなかったのだ。
この会は「公立埋蔵文化財センター」の連絡協議会で、ほぼ100%が考古学を専攻するプロの方がたの集まりですが、先生以外にもう一人だけ建築史の専門家がいらっしゃいました。F県埋蔵文化財センターのY所長です。先生が奈良の研究所にいらっしゃったころ、Y所長は一乗谷の復元整備をされており、『埋もれた中近世の住まい』という本を一緒につくられたそうです。じつに10年ぶりの再会だそうでして、先生は質疑応答の最後にY所長のコメントを求められました(↑)。その夜はお二人でじっくり歓談されたそうです。
さて、余談ながら、研究室報告書の販売は、前々日に武内くんが8時間かけて作成したチラシのおかげで、そこそこの売れ行きでした。あとは世の中が平和であることをただひたすら願うだけ・・・。(Mr.エアポート)
「卑弥呼の宮殿」なんて、言ってないよぉ・・・ 下は講演の新聞記事です。記事にしていただいたことには感謝しますが、見出しにはまいったなぁ。わたしは、この講演で「卑弥呼の宮殿」なんて言葉は一度も使っていません。纒向遺跡の「建物D」もしくは「超大型建物」という表現しかしていないのです。しかし、紙面には「卑弥呼の宮殿」という六文字が躍っている。これがマスコミ考古学の恐ろしいところですね。メディアが「卑弥呼の宮殿」というフレーズを使いたい気持ちはもちろんよく分かります。読者を紙面にひきつけたいから、そういう書き方になる。わたし自身、
11月11日のブログ記事のタイトルを「推定『卑弥呼の館』の復元をめぐって」としています。「纒向遺跡超大型建物の復元」にしても良かったのだけれど、やはりアクセスを増やしたいという下心があって「推定『卑弥呼の館』・・・」としてしまいました。しかし、この「推定」という冠語が効いているのですよ。まだ、そうだと断定しているわけではありません、という意味で「推定」としているわけですからね。今回の記事でも、見出しの上に小さなポイントで「推定」と入れておけば問題なかったわけです。そうすれば嘘の報道にはならないけれども、「推定」がないと嘘の報道になってしまいますね。だって、わたしは「卑弥呼の宮殿」という言葉は一度も使っていないのだから。
もうひとつ大きな間違いがあります。それは、青谷上寺地と纒向を同時代の「2世紀」としている点です。これは困った。青谷の部材は弥生中期以降で後期の材が多数を占めます。ここは2世紀以前という言い方をしておけばよいでしょう。一方、纒向大型建物群の年代は3世紀前半です。いわゆる「弥生末~古墳初期」という境界的な時代相であり、だから古墳時代の家形埴輪をモデルにして、その建築構造・意匠を青谷の部材で再構成していくという復元の方法が許容されうるのだとわたしは思っています。
以上の問題点は、記者さんに電話でお知らせしました。繰り返しますが、記事にしていただいたことは感謝しています。ただ、ちょっとお勉強が足りなかった、ということですね。

(左)山陰中央新報09年11月20日 (右)日本海新聞09年11月22日
- 2009/11/22(日) 00:08:17|
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