
広州からバスで2時間半ばかり離れた開平市の郊外に自力村という村落がある。自力とは「自力更生」の自力だから、この村名が解放後の呼び名であることはただちに想像されよう。もとは永安里、合安里、安和里という3つの集落に分かれていた。この周辺には、ピーク時でじつに3000棟におよぶ「望楼」が築かれていたという。

辛亥革命を経て、孫文が中華民国の誕生を宣言し、初代臨時大総統の位に就いたのが1912年。清朝末期に海外に移住していた華僑たちは国民主権を唱う中華民国の近代的な国家体制に驚喜し本国に帰還していった。1920~30年ころ、開平の地に続々と望楼が築かれた。帰国した華僑たちが欧米の鉄筋コンクリート構造をもちこんで、中国古来の空間や意匠と融合させつつ生み出した高層住宅である。
望楼は「客家土楼」の近代版のようにもみえる。中庭はないけれども、防御性能に重きおいた高層住宅だからだ。銃眼もあれば、落石用の穴が屋上の張り出し部分にあいている。望楼が築かれたころ、治安は悪化し、盗賊たちが跋扈していたのだという。

いったん海外に出て本土に戻った中国人は貧乏クジを引いたようなものだ。民国誕生後の帰還者もそうだっただろうが、中華人民共和国誕生後の帰国者たちを待っていたのは「地獄」でしかなかった。海外の資本主義社会のなかで生活し、商売をして金を稼いだというだけでスパイ扱いされ、拷問をうけた(と
ユン・チアンは書いている)。望楼を築いた多くの金持ちたちも、ひどいめにあって再び香港あたりに逃げていったのだろう。だから、望楼には空き家が多い。そういう空き家を盛んに修復している。修復の現場に接するのは商売柄ありがたい。しかし、その一方で、あまり良い写真が撮れなかった。
村に残った人たちは「農家飯」を売りにした民宿レストランを経営している。


まずは「銘石楼」という屋号の望楼にあがった。銘石楼の主人はシカゴで成功した華僑で、3人の奥さんをもっていた(『ワイルド・スワン』を思い出した)。うち1名はアメリカ人である。第1婦人は2階、第2婦人は3階、第3婦人(アメリカ人)は4階に住み分けた。建物はコンクリートやレンガを基調として洋風であり、各階はほとんど同じ平面をしているが、家具は中国風。ただし、女たちの出自や年齢を反映して家具や小物類には趣味の差が微妙にあらわれている。
最上階の屋内に廟(仏壇)を祭り、その外側のバルコニーが屋上で、ここから四方を望み、投石する。
隣の「雲幻楼」はマレーシアの華僑が築いた望楼。やはり同じような構成をしている。

開平の望楼群は2007年、世界文化遺産に登録された。建物をくりかえし眺めながら、登録の成否はギリギリの攻防ではなかったか、と想像した。芸術的な価値が高いわけではない。中国の伝統的木造住宅と西欧建築の融合という点では、マカオ(
澳門)のほうが優れているだろう。少なくとも、人に感動を与えるほどの力を望楼群がもっているか、と言えば、はなはだ疑問である。
1920~30年代中国の洋風建築という点を評価すべきだと言われれば、たしかにそうなのかもしれないが、同じような建物が広東や福建の租界地に建設されなかったわけではない。やはり、中華民国誕生後に華僑が帰国して定住した華洋折衷建造物の「大集合」であるという点を評価するしかないだろう。ほかの地域に同趣の建物がないとはいえないけれども、ピーク時で3000棟という数がなにより圧倒的であり、その点にこそ newness がある。ここにいう new とは「新しい」ではなく、「珍しい」を意味する形容詞。諸々の価値がさほど高くなくとも、他に類例がないか、極端に乏しい場合、それは世界遺産の対象になる・・・そんなことを考えながら、開平の村を歩いていた。
[追記] 先日、「拍手」が6000を超えたことをお知らせしましたが、この記事はちょうど2000件めのアップとなりました。広州から感謝を込めて、多謝! (11月晦)

- 2009/12/01(火) 00:00:15|
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