双子のような村 不動院岩屋堂の地名調査により、岩屋堂集落の旧名が当初「柿原」であったことが判明しました。不動院岩屋堂と岩屋山千手院の「岩屋」も共通していますし、千手院窟堂の窟堂も「くつどう」ではなく「いわやどう」と読むようです。これら固有名称の類似性は、直線距離で11km離れた二つの村が親しい関係にあったことを暗示しています。おそらく二つの村は「本村・分村」の関係にあったのでしょう。常識的には、平安時代大同年間から記録の残る不動院岩屋堂が本村、江戸時代の因幡誌より古い文献記録のない千手院(柿原)のほうが分村ではないでしょうか。柿原集落の人にとって、不動院岩屋堂は村の精神的支柱であり、分村を作るにあたって同じような岩窟のある旧八東町柿原の地を選び、そこに岩屋堂を模倣した千手院窟堂を築いたのではないでしょうか。おそらく両村を結ぶ山中の抜け道があるだろうと思うのですが、この雪では調査はかないません。

さて、千手観音はいったいどこに祀られていたのでしょうか。復元では仏堂の外、つまり岩窟の奥に千手観音を祀ったわけですが、千手観音は本当に仏堂内ではなく、岩窟の奥にあったのか、それとも仏堂内に祀られていたのか、3年生の2人(轟、武内)で意見が割れました。
武内: 千手観音は仏堂の外、つまり岩窟の奥にあった。岩窟内を調査したときに梵字を彫った平らな石がたくさん残っていた。梵字のない石は床に敷かれていた。梵字のある石は「石仏」の省略形であり、壁一面に貼り込まれていて、その中心に千手観音が鎮座していたのではないか。
轟: 千住観音は岩窟ではなく、建物の内部に祀られていた。千手院を調査していくうちに若桜の不動院岩屋堂との関係が明らかになってきたことで、復元にも参考にした、不動院岩屋堂と関係があるなら、不動院と同じく千手観音は建物内部に祀られていたのではないか。
武内説なら復元された仏堂は「礼堂」、轟説なら仏堂は「内陣」に相当し、この問題は岩窟型仏堂の変遷を考える上で重要な意味をもっています。50年前までは建物が存在していたそうですから、今後、写真資料が発見される可能性もあり、そのとき真実があきらかになるでしょう。

以下、千手院の復元と担当した3年両名の感想です
スケッチとCGが一緒なら、なお良かった 昨年
10月22日の不動院岩屋堂の訪問から
10月29日の岩屋山千手院の発見、11月からの測量を経て、12月に入ってから復元を行ってきた千手院。プロジェクト研究2&4の最後の練習会では発表の機会を与えていただき、その一週間後、2年生のパワポに取り入れられて、公開のお披露目となり、山陰中央新報に掲載されました。
ぼくたち3年の後期の成果として、はじめて復元に挑戦し、敷地の調査から類例の調査など苦労する面もありましたが、エアポートさんの助けを受けながら進めていき、何とか形にすることができ、直接1・2年の指導をしてきたわけではありませんが、とてもうれしく思います。1・2年生の発表は、熱心に指導されていた先生や先輩方のおかげと個々人の学習・発表体制やスライドのデザインのすごさもあり、とてもいい出来だったと思います。1・2年生にはこれからもがんばっていってほしいと思います。
今回のプロジェクト研究の内容が山陰中央新聞の記事になりました。ありがとうございます。そこにぼくたちが作成した千手院の復元パースも載っており、うれしかったです。記事を読むと檜尾さんがデザイン、復元をしたように書いてありました。それなら檜尾さんのスケッチも一緒に載っていたらよかったなと思いました。(3年 轟)
新聞に載るなんてすごいですね! 1月22日の『山陰中央新聞』21面に岩屋山千手院(プロジェクト研究2・4)の記事が載りました。(すごいですね)
プロジェクト研究で、みんな一所懸命に頑張っていたので記念になって良かった。復元CGも載せていただいて、わたしたちも頑張った甲斐がありました。千手院跡の測量から始まり、岩窟の実測、千手院について情報収集、作図など一からのスタートで復元に至るまでに時間はかかりましたが、研究室やプロジェクト研究の皆のお役に立てて良かったと思います。
岩屋山千手院を調べる上でご協力いただいた皆さん。先生や先輩方、山陰中央新聞様、ありがとうございます。
ちなみに、この前先生に「ペンネームが(同音で)センスがない」と言われたので近々ネームを変えたいと思います。では、この辺で失礼します。(3年 武内)

↑山陰中央新報2010年1月22日の記事(クリックすると拡大表示されます)
- 2010/01/25(月) 00:00:45|
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