同窓Wからの再信 2月1日の記事にコメントを頂戴した同窓W氏が、今度はメールで意見を送ってきてくれたので以下に引用しておきたい。
私は、熱烈に鳥取西高を愛する卒業生の一人ですが、個人的には、何としても、
今の県の計画は変更して貰いたいです。鳥取西高の改築は、史跡整備の一環
として、復元建物や史跡にともなう展示施設以外の施設を大規模に整備するという、
これまでの紋切型の史跡整備に一石を投じるものです。従って、鳥取の事例を
全国の人々が、羨ましがるようなものになってほしいと思います。
やや語気を強めて言えば、これまで史跡外に母校の移転を強制された人たちを
後悔させるような整備であって欲しいのです。史跡との共存を日本で初めて
実現した学校改築事例にするには、やはり、遺跡の公開活用を積極的に取り入れ、
景観にも格別に配慮したものでなければならないでしょう。
アシガル君、最後のラストスパート、頑張って下さい!
いつだったか、ある新聞記者氏と酒席で論争になったことがある。わたしが「西高は移転する必要などない」と主張すると、記者氏は「それはOBの感情論」だと切って捨てた。わたしはたしかに西高のOBではあるけれども、「熱烈に鳥取西高を愛する卒業生の一人」というほどではない。卒業生かどうかなんて、どうでもよいことです、わたしにとっては。問題は「史跡」という対象のとらえ方であって、文化財専門家のわたしよりも、記者氏のほうが保守的なのではないか・・・
世界遺産の例をまずは紹介した。カンボジアのアンコール遺跡群やタイのスコータイ、アユタヤなどではモニュメントや遺跡の敷地に集落が入り込んでいて、場合によっては、そこに校舎をふくむ場合がある。そういう場合でも、ユネスコは「集落」を史跡から排除して転居を強制するようなことをしていない。史跡と集落の共存を維持している。史跡に住む人びとは、史跡が世界遺産に登録される前からそこに住んでいる。そういう人たちには、当然のことながら「先住権」がある。国の特別史跡にして世界文化遺産の「平城宮跡」にしても、佐紀町や法華寺町の集落が浸食していて、そのなかには店舗施設を含んでいる。文化庁や奈良県教委は、そこに住む人々の住居や店舗の移転を求めたりしていない。
西高の場合も、鳥取一中時代から三ノ丸の跡地に校舎があった。敷地を発掘調査すれば、一中時代の遺跡もでてくる。今の校舎はデザインに難があるのは間違いないけれども、一中以来の歴史を受け継いだものであり、これを「鳥取城とは無関係」だから「悪」だとして排除しようとする考えかたがそもそもおかしい。文化財至上主義者は、自らのイデオロギー以外に正当なものはない、と思っているのだろうか。このイデオロギーに従うならば、重要文化財「仁風閣」もまた鳥取城の跡地から移転せざるをえないであろう。しかし、かれらは決して「仁風閣を移築せよ」とは言わない。なぜ西高だけが移転しなければならないのか。
史跡を校舎として活用する 発想を変えたほうが良い。今は文化財をただ「保存」する時代ではない。「保存」しながら「活用」する時代である。仁風閣で結婚式がおこなわれる時代なのですよ。だったら、鳥取城跡を「校舎として活用する」という発想をもてばよいだけのことではないですか。校舎で教育をまっとうするだけでなく、その校舎を使っているだけで、鳥取城の歴史を学べるような仕掛けを随所にしのばせる。そして、その一部を市民と共有できるようにすればよいではありませんか。
わたしは、この日曜日、
兵庫県立考古博物館を訪ね、校舎の設計は「史跡ガイダンス施設や遺構露出展示館の応用」で十分可能であるとの意を強くした。この種のガイダンス施設には、必ず体験学習室がある。そこで、土器を作ったり、古代の衣服を編んだりする。そういう部屋はパーゴラを境にして史跡公園に繋がっている。だから、その「教室」からいつでも史跡の芝生にでていけるし、室内からは復元整備された竪穴住居群が目に入る。史跡内の校舎も、こういう演出をすればよいのである。また、展示室の床にはひろい範囲に透明なアクリル板が張ってあり、その下には焼失住居跡のレプリカが展示してあった。御所野遺跡でわれわれが最初に試みた展示方法が兵庫にまで伝播してきているのだ。これも校舎に採用できる。食堂やロビーの床にアクリル板を張って、下に遺跡のレプリカを展示する。ところどころはアクリル板を取り去って本物の遺跡をみせるのもよいだろう。
校舎のすべてのエリアは展示室になる。ロビーも、ホワイエも、廊下も、階段も、トイレも、どこだって遺物やパネルが展示できる。そして、屋外の芝生の上には、地下遺構が復元表示されていて、木陰にはベンチが置かれ、学生たちの憩いの場となる。タイのスサチャナライ(世界遺産)では、屋外に土器のレプリカ展示をしていた。植栽とあわせて遮蔽施設となっていたように記憶している。
建築としての健全性とデザインも大きな問題になるだろう。しかし、これまで、遺跡上に遺構露出展示館やガイダンス施設を築いてきた経験が日本中にある。平城宮跡のなかにも、いっぱい「仮設建物」という名の常設建物が建っている。盛土を厚くして、しっかりしたベタ基礎をひろい範囲に敷き詰め、建物を軽くすれば、遺構を壊すことはない。わたしたちは事務・職員棟を木造平屋建、教室棟を低い鉄筋コンクリート2階建にする予定。もちろん意匠は穏やかに。学生たちはフランク・ロイド・ライトの緩い寄棟屋根の意匠を検討中。そして、校舎建物群を南側の門・塀・走櫓・籾蔵で遮蔽する。内堀側からみえるのは、これらの復元建物だけ(走櫓は図書館として利用する)。城下から久松山を望むと、まるで城跡に三ノ丸が再興したような錯覚を覚えるだろう。
鳥取県教育審議会にて 2月3日(火)、いつもさぼってばかりいる鳥取県教育審議会に出席した。昨年11月の
公立埋文協と同じ会場である。ずっと沈黙をたもっていて、最後の最後、議長が「その他なにかご意見等ございますか?」と発声されたところで、おもむろに挙手した。教育長がご不在であったのが残念だった。西高移転の問題について質問し、教育長代理の方が「いま県民の声を聞くためにタウン・ミーティングを開くなどして、今後の対応を慎重に検討している」というような答えかたをされた。
そうであるならば、アリーナ(体育館)建設予定地の発掘調査現場で、RC杭基礎の打たれる部分を深掘りさせるなどという愚かな行為はやめさせなければいけない。ああいう深掘り調査をすることにまったく意味がないとは言えない。深掘りによって下層の情報が入手できる。しかし、こういう下層遺構の確認はふつう断面確認の畦(ベルト)に沿っておこなうものだ。現実には、RC杭基礎が納まる部分の深掘りなのであって、それは「体育館をあの敷地に建設し、設計変更する意志がない」ことの表れであり、文化財破壊に等しい行為である。校舎の設計を保留して、慎重な検討を続けるというスタンスをとると言うならば、追加の国史跡指定地となる籾蔵跡地は江戸時代末の遺構面で検出を止めなければならない。その地下には弥生時代から江戸時代に至る文化層が何層も堆積しているのである。
いま発掘調査している場所にアリーナを建設することに、わたしは賛成できない。わたしは校舎移転派ではないけれども、あの場所に大きな杭基礎を打ってアリーナを建設するなどもってのほかだと思っている。前にも述べたが、アリーナを建設する場所はほかにある。いまの発掘調査現場は国の史跡として保存し、「
籾蔵サイトパーク」として整備活用を図るべき場所である。高校生と市民の憩いの場として再生したい。
- 2010/02/05(金) 00:00:38|
- 史跡|
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コメント:4
拝啓。いくつかご意見に疑問を感じる点があり、コメントさせていただきます。
鳥取城跡の西高は、平城宮跡の北辺あたりにある民家や商業施設と同列に対比できるでしょうか。むしろ、大極殿や朝堂院跡にそれらがある場合と比較すべきではないでしょうか。史跡の中枢部、世界遺産の中枢部に無関係の施設があったら、移転した方がよいと思うのが普通の感覚と思います。そうでなければ、オーセンティシティ―に重大な影響がある、と思われませんか?
仁風閣が移転する必要がないのは、鳥取城跡の歴史的意義や魅力を増す建物だからですよ。西高も、鳥取一中時代の建築を大事に残してきて、史跡との調和を大切にしてきたのなら、歴史的正当性を主張できたかもしれません。つまり、史跡の構成要素として外せない、という位置づけを獲得できたかも。しかし、あくまで現代建築の増改築、新築ですよね。過去もそうしてきた。保存管理計画も無視して。常に大きな声や感情論で保存の論理を封じてきた、というのが実態ではないでしょうかね。だから説得力がなく、「エゴだ」と感じる人も出てくる。
「文化財至上主義者」や「地上げ屋」のような穏やかでないレッテルを貼って非難することは、賢くないやり方です。感情的になりやすい話なだけに、もっと冷静な議論を展開しないと。先生はその道の専門家ですから、いろんな人がご意見を参照するわけですよ。保存とか、活用とかもきちんとした定義もないまま個々人の勝手な解釈や用法で議論しているのが実情だと思います。皆が共有できる定点のような論理を示していただきたい、と思っています。
長文失礼しました。
- 2010/02/07(日) 23:55:30 |
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- sanukiya #-
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コメント、ありがとうございます。滅多にコメントの入らないLABLOGに正面切って長文のコメントをいただいたことに深く御礼申し上げます。
さて、まず「オーセンティシティ」という用語の使い方がおかしいですね。ベニス憲章や世界遺産条約を読んでいただければただちにご理解いただけるはずですが、オーセンティシティとはその文化遺産が歩んできた歴史の蓄積の総体をさすものであり、当初(オリジナル)の状態をさすものではありません。したがって、鳥取城跡の場合、近世城郭廃絶後に建設された仁風閣や一中~西高を含むすべての資産がオーセンティシティを構成します。ですから、仁風閣や西高は史跡内にあっても問題はないはずで、ただ前者はその存在が史跡景観の質を高めているのに対して、後者はそれを低くしているという違いがあるだけのことです。ですから、わたしは西高を移転すべきだとは「全く」思っていません。今回の建て替えにあたって、史跡の質を高めるような校舎として生まれ変わらせればよいという認識のもとにプロジェクトを内々に進めているのです。
次に平城宮跡の問題ですが、仮に史跡指定前に佐紀町や法華寺町の集落が内裏から大極殿・朝堂院にまで及んでいたとしても、国はその集落の居住者に転居を求めたりはしなかったでしょう。県内だと・・・そうですね、青谷上寺地遺跡を例にとるならば、その北半には住居・団地・工場が集中していますが、その所有者に転居を求めたとすれば、国史跡の指定は実現しなかったでしょうね。
わたしはたしかに文化財の専門家です。しかし、ここ2~3年で各地の史跡整備委員会委員を続々と辞めております。ひとつに「復元」という行為(復元研究ではなく、復元事業としての再建行為)に対する嫌悪が潜在的にあり、鳥取城についても「復元」に係わるのが嫌で、調査委員はしていますが、整備委員を固辞してきました。かりに西高が移転して三の丸が空地になったとしましょう。そこは当然整備の対象になります。そこでまたぞろ「復元」熱が高まって、ろくに証拠もないのに城郭施設が再建されることになったとしたら、それこそ当初回帰という名のオーセンティシティ破壊になってしまいます。
さてさて、わたしは冷静なつもりですよ(というか、気楽なんでしょうね)。感情的になっているのは「移転派」や「再建派」であって、わたしとは関係ありません。わたしたちは卒業研究の一つとして「史跡と共存する校舎の設計」に取り組んでいるだけのことであり、その案を、たとえばタウン・ミーティングに出向いてアピールしようなどという色気をもっているわけではありませんので。
ただし、おっしゃるとおり、「地上げ屋」という言葉は不適切でした。これを使おうかどうか、迷ったんですが、いま削除しましたので、ご寛恕いただきたくお願い申し上げます。ただし、「文化財至上主義者」という言葉は残します。「史跡」を「教育の現場」より優先しているのだから、そう呼ばれたって仕方ないんじゃないでしょうか。
「定点」にならなければならない年齢でもあり、職責でもありますが、すべての事象は相対的ですので、なにが「定点」なんだかよく分からないところもあります。わたしの主張は単純です。1)西高は移転する必要はない。2)新しい校舎は史跡と共存し、久松山の文化的景観の質を向上させるように計画されるべきである(県が進めようとしている現計画案については大幅な見直しが必要)。3)籾蔵跡地の深掘りをただちに停止し、史跡の追加指定候補地として埋め戻す(体育館は籾蔵跡地に建設しない)。以上の3点を図面として近々示したいのですが、いつ公開できるか分からないというのが現実です。くりかえしますが、わたしたちのプロジェクトは卒業研究の一つであって、誰に対しても強制力のあるものではありません。
- 2010/02/08(月) 02:48:14 |
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- asax #90N4AH2A
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ご多忙の中、しかも深夜に懇切なご回答をいただきありがとうございます。大著をご準備中とのこと、お手をわずらわせたくありませんが、やはり納得いたしかねますので、もう一言だけ。
オーセンティシティーの理解がおかしいとのご指摘をいただきました。ベニス憲章等々は読んでいるつもりですので、当初遺構だけにオーセンティシティーがあるとは私も思っていません。しかし、現在の西高にもそれを付与しうるというのは、二重の意味で解せません。
史跡指定以前から存在した西高校舎、一中の遺構であれば、史跡の構成要素としての正当性すなわち、オーセンティシティーを主張できる(可能性がある)と思います。しかし現在の西高校舎は、指定後のコンクリート建築です。事情はよく知りませんが、この時もすったもんだの議論があった由。先生もご指摘の通り、史跡の価値を低くするどころか、一部地下遺構を破壊している可能性もある。ベニス憲章第11条にいう「正当な貢献」とは認めがたいと思うのです。問題なのは、「指定以後」の建築であること、「悪い方向に」改変しているという2点です。「指定前」の話をしているのではありません。文化財保護を所轄している教育委員会が、という点も問題ですね。
100歩譲って、現在の西高校舎にもオーセンティシティーがある、とすると、それを改築によってさらに変えてしまうことは問題にならないのでしょうか。オーセンティシティーを認めれば、現在の外観や校舎配置を極力変えない、という方針を取らざるをえなくなるでしょう。やはり、史跡の要素として重要でない、ということにしておかないと、先生と学生さんのプロジェクトにも影響しましょう。
誤解がないよう申し上げますが、私は先生方が進めておられる構想にイチャモンをつけているのではありません。むしろ、現実的な調整案の一つとして「アリ」だと思うし、とても創造的なお仕事だ、と期待しているのです。アリーナ建設予定地に関するご意見にも、まったく異論はありません。ただし、「改築」に至る論理はクリアすべき課題が多いと思います。
教育環境の整備を焦れて待っている方々にとってみれば、どうでもよいことかもしれませんが、史跡保護にせよ、校舎整備にせよ、何が理想かを丹念に議論してこなかったツケが今きているのですし、議論の蓄積を評価しない社会に未来はあるか、と思う次第です。
またしても長文失礼しました。マーマレードは二種類の柑橘類を使うと風味が増すのだそうです。お疲れが出ませんように。
- 2010/02/09(火) 01:12:28 |
- URL |
- sanukiya #-
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結局、現在の西高が「悪」だという前提で「前へ進め」とおっしゃっているわけで、それこそ「感情的」なスタンスじゃありませんか。そんな態度をとったら、まとまる話もまとまらなくなりますよ。形は違えども、一中以来、西高はあそこにあって、わたし自身、あの校舎で学んできたわけです。それに対して、指定後の建築は「悪」だから、学校自体を移転せよと言われても、学校の担い手側は反発を強めるだけです。それに、「史跡」という概念は、建築にあるわけではありませんからね。その「場所」の歴史性を評価しているのですから、「一中~西高にオーセンティシティ」があると言ってもおかしくはないはずで、景観と遺跡の質をおとしめている校舎を適正なものに改めようとしていることに、いったい何の問題があるのか、さっぱり分かりませんね。
そもそも、わたしたちのプロジェクトは「調整案」ではありませんからね。わたしたちは「移築派」と「再建派」の「現実的な調整」をするためにこのプロジェクトを進めてきたわけはありませんので、これはちょっと失礼な表現ですよ。結局、あなたは「移築派」の立場でモノを言ってる。ニュートラルではないですね。わたしたちは、そんな議論に巻き込まれたくありませんので。
わたしたちは、「調整」とかそういうややこしいことは抜きにして、純粋な気持ちで卒業研究に取り組んでいるのです。卒業研究なのだから、だれからもなにも束縛されない。逆に、わたしたちのプラニングを行政や学校に押しつけるつもりはありません。わたしたちの信念に基づいて考えてきたプラニングであり、デザインですから。なにもない史跡に、根拠の乏しい復元建物を建てるより、いまのびのびと高校生活を送っている高校生たちが、より歴史に親しむことのできる「史跡にふさわしい校舎」の一案を提示することが、わたしたちの目的です。こういう発想で、学校の設計をした例は全国でもないですからね。新しい目線で、人のやっていない研究に取り組む。それは一種の知的ゲームであって、それを楽しむことが大学ではなにより大事です。「調整」は行政のお仕事であって、わたしたちのミッションではございません。
- 2010/02/09(火) 13:32:44 |
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- asax #90N4AH2A
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