昨夜、「
鳥取城三の丸高等学校プロジェクト(Ⅲ)」に対して「反論」と題するコメントを頂戴した。大変真摯なコメントであり、ご指示にしたがって、(Ⅲ)の本文を改めた部分もある。また、わたし自身、長文のリプライを書いて自分の意見を補足している。以上については(Ⅲ)のコメントを読んでいただければよいのだが、見逃される危険性もあるので、ここに再録しておきたい。なお、わたしのリプライに関しては若干加筆修正している。
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objection拝啓。いくつかご意見に疑問を感じる点があり、コメントさせていただきます。
鳥取城跡の西高は、平城宮跡の北辺あたりにある民家や商業施設と同列に対比できるでしょうか。むしろ、大極殿や朝堂院跡にそれらがある場合と比較すべきではないでしょうか。史跡の中枢部、世界遺産の中枢部に無関係の施設があったら、移転した方がよいと思うのが普通の感覚と思います。そうでなければ、オーセンティシティ―に重大な影響がある、と思われませんか?
仁風閣が移転する必要がないのは、鳥取城跡の歴史的意義や魅力を増す建物だからですよ。西高も、鳥取一中時代の建築を大事に残してきて、史跡との調和を大切にしてきたのなら、歴史的正当性を主張できたかもしれません。つまり、史跡の構成要素として外せない、という位置づけを獲得できたかも。しかし、あくまで現代建築の増改築、新築ですよね。過去もそうしてきた。保存管理計画も無視して。常に大きな声や感情論で保存の論理を封じてきた、というのが実態ではないでしょうかね。だから説得力がなく、「エゴだ」と感じる人も出てくる。
「文化財至上主義者」や「地上げ屋」のような穏やかでないレッテルを貼って非難することは、賢くないやり方です。感情的になりやすい話なだけに、もっと冷静な議論を展開しないと。先生はその道の専門家ですから、いろんな人がご意見を参照するわけですよ。保存とか、活用とかもきちんとした定義もないまま個々人の勝手な解釈や用法で議論しているのが実情だと思います。皆が共有できる定点のような論理を示していただきたい、と思っています。
長文失礼しました。 2010/02/07(日) 23:55:30 | URL | sanukiya
sanukiyaさんへ コメント、ありがとうございます。滅多にコメントの入らないLABLOGに正面切って長文のコメントをいただいたことに深く御礼申し上げます。
さて、まず「オーセンティシティ」という用語の使い方がおかしいですね。ベニス憲章や世界遺産条約を読んでいただければただちにご理解いただけるはずですが、オーセンティシティとはその文化遺産が歩んできた歴史の蓄積の総体をさすものであり、当初(オリジナル)の状態をさすものではありません。したがって、鳥取城跡の場合、近世城郭廃絶後に建設された仁風閣や一中~西高を含むすべての資産がオーセンティシティを構成します。ですから、仁風閣や西高は史跡内にあっても問題はないはずで、ただ前者はその存在が史跡景観の質を高めているのに対して、後者はそれを低めているという違いがあるだけのことです。ですから、わたしは西高を移転すべきだとは「全く」思っていません。今回の建て替えにあたって、史跡の質を高めるような校舎として生まれ変わらせればよいという認識のもとにプロジェクトを内々に進めているのです。
次に平城宮跡の問題ですが、仮に史跡指定前に佐紀町や法華寺町の集落が内裏から大極殿・朝堂院にまで及んでいたとしても、国はその集落の居住者に転居を求めたりはしなかったでしょう。県内だと・・・そうですね、青谷上寺地遺跡を例にとるならば、その北半には住居・団地・工場が集中していますが、その所有者に転居を求めたとすれば、国史跡の指定は実現しなかったでしょう。
わたしはたしかに文化財の専門家です。しかし、ここ2~3年で各地の史跡整備委員会委員を続々と辞めております。ひとつに「復元」という行為(復元研究ではなく、復元事業としての再建行為)に対する嫌悪が潜在的にあり、鳥取城についても「復元」に係わるのが嫌で、調査委員はしていますが、整備委員を固辞してきました。かりに西高が移転して三ノ丸が空地になったとしましょう。そこは当然整備の対象になります。そこでまたぞろ「復元」熱が高まって、ろくに証拠もないのに城郭施設が再建されることになったとしたら、それこそ当初回帰という名のオーセンティシティ破壊になってしまいます。
今回の「鳥取城三の丸高等学校プロジェクト」では、走櫓・土塀・籾倉などを復元することにしていますが、それらはその内側にある校舎を遮蔽するための装置として機能させることを目的とした復元建物です。いわば景観的な配慮としての復元建物であり、この復元建物が存在することによって、校舎が史跡地内にあることがおそらく容認されるだろうという意図をもっているから、あえて「復元」に挑んだのです。
さてさて、わたしは冷静なつもりですよ(というか、気楽なんでしょうね)。感情的になっているのは「移転派」や「再建派」であって、わたしとは関係ありません。わたしたちは卒業研究の一つとして「史跡と共存する校舎の設計」に取り組んでいるだけのことであり、その案を、たとえばタウン・ミーティングに出向いてアピールしようなどという色気をもっているわけではありませんので(自分たちの研究会で発表することはあるでしょうが)。
ただし、おっしゃるとおり、「地上げ屋」という言葉は不適切でした。これを使おうかどうか、迷ったんですが、いま削除しましたので、ご寛恕いただきたくお願い申し上げます。ただし、「文化財至上主義者」という言葉は残します。「史跡」を「教育の現場」より優先しているのだから、そう呼ばれたって仕方ないんじゃないでしょうか。
「定点」にならなければならない年齢でもあり、職責でもありますが、すべての事象は相対的ですので、なにが「定点」なんだかよく分からないところもあります。わたしの主張は単純です。
1)西高は移転する必要はない。
2)新しい校舎は史跡と共存し、久松山の文化的景観の質を向上させるように計画される
べきである(県が進めようとしている現計画案については大幅な見直しが必要)。
3)籾蔵跡地の深掘りをただちに停止し、史跡の追加指定候補地として埋め戻す
(体育館は籾蔵跡地に建設しない)。
以上の3点を図面として近々示したいのですが、いつ公開できるか分からないというのが現実です。くりかえしますが、わたしたちのプロジェクトは卒業研究の一つであって、誰に対しても強制力をもつものではありません。 2010/02/08(月) 02:48:14 | URL | asax
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上のリプライに対して、再コメントが入っている。わたしもリプライしておいたので、ご参照ください。「調整」だのなんだの書いてありますが、わたしたちは行政機関の職員ではないので、そういう議論に巻き込まれるのはご免こうむりたいですね。
わたしたちは純粋な「卒業研究」として、このプロジェクトに取り組んでいる。「移築派」や「再建派」の「調整」をしようなどとはまったく思ってもいません。卒業研究なのだから、だれからもなにも束縛されない。逆に、わたしたちのプラニングを行政や学校に押しつけるつもりはありません。わたしたちの信念に基づいて考えてきたプラニングであり、デザインですから。なにもない史跡に、根拠の乏しい復元建物を建てるより、いまのびのびと高校生活を送っている高校生たちが、より歴史に親しむことのできる「史跡にふさわしい校舎」の一案を提示することが、わたしたちの目的です。こういう発想で、学校の設計をした例は全国でもないですからね。新しい目線で、人のやっていない研究に取り組む。それは一種の知的ゲームであって、それを楽しむことが大学ではなにより大切です。「調整」は行政のお仕事であって、わたしたちのミッションではございません。
- 2010/02/10(水) 00:00:31|
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