田後での聞き取り調査(祭り班) 6月17日(木)。今回のプロジェクト研究は「漁業班」と「祭り班」に分かれて活動した。祭り班は田後に行き、先週から調べてきた資料を基に、集落のお年寄りや漁師の方々がたにヒアリングした。その中で、地元の歴史に詳しい古泉さんという方にお会いすることができ田後漁協の一室をお借りして話を聞かせていただいた。以下に、調査記録を記す。
「けんか祭り」 けんか祭の始まった年は不明。大正時代にはおこなわれていた。昔は神輿と御船を担いでいただけであった。御船の始まりは明治26年、神輿は明治27年と御船の方が1年早い。ぶつかり合いが始まったのは、お酒に酔った若者により御船の統括が取れなくなり、御船側が神輿側にぶつかってそれに怒った神輿側(お年寄り中心)が対抗してぶつかり合ったのが始まりだそうだ。それがルーツのようで、以前は殴り合いもあり、負傷者も多数いたが現在はとてもおとなしくなり、祭りに参加している者はいかに盛り上げるかを考えながらやっている。盛り上がれば盛り上がるほど、大漁になると考えられてきた。けんか祭に参加する人数は決められており、それぞれの区(村内は10区に分けられている)から3人ずつ、計30人が神興を担ぐ役となった。神輿を担げる者は既婚者の男性と決まっている。御船もそれぞれの区から選ばれた計20人が担ぐ。御船は独身の男性が担ぐが、最近は若者が居なくなり自治会の役員も参加する。麒麟獅子は獅子舞に2人、ショウジョウに1人が任せられ、計53人で「けんか祭」が行われる。これらの役がまわってくるのは数年に一度のこと。ちなみに年齢制限はないが子供や70歳以上のお年寄りは参加を控えている。さらに、身内に不幸があった人や、乳児が産まれた場合は参加できなくなる。開始される時間も決まっている。午後12:00に神事(お払い、酒つき)をし、御船や神輿を漁協前の広場に担ぎ出し、体勢を整える。13時前から始まり20~30分程度で終了する。しかし昔は神輿をぶつかり合わせるものではなかったという。去年は見物人に子供、若者10数人ほどいた。
田後神社 田後神社は『事代主命(ことしろぬしのみこと)』を祀っていて、島根県美保関町「美保神社」の分社。明治元年に「田後社」と定められ、明治7年に「田後神社」と改称された。
田後村の起源 漁村・漁港としての田後は、島根県浜田市の漁民がルーツにあるのだと言われている。毎年、浜田の漁民は3月に田後にきて10月に帰っていたが、この場所に住んでよいという許可が下り、田後に住み始めたのだそうだ。住み始めてから100年足らずで160軒以上の民家の建ち並ぶ集落になったという。田後の人は毎月1日に家で神様をまつる行事がある。
村の言伝え 元禄3年、船は24隻あり、1隻に6人乗ることができ、5~30km沖まで漁労にでていた。田後は昔から24隻以上になると不幸が降りかかるという言い伝えがある。それの代表例が享保7年、この年は船が24隻あり村人達は減らすことを考えていたがそれをしなかった。その年の12月7日、荒波にのまれ船が全滅、144人中122人も亡くなった。その後、村の中で漁に出ることができる人数を調べたところ48人いて、1隻あたり6人が乗船するため、鳥取藩から船8隻ぶんのお金を借りて船を作ったという。ちなみに、今回話を聞かせて下さった古泉さんの先祖は、その中の生存者だそうだ。
カニの日 鳥取県では、11月の第4土曜日は「カニの日」と決められている。昔、網代で底引き漁が始まり、田後でも底引き漁(田後では「てぐり」と言う)を取り入れた。底引きなので水深10~20mまで網を沈めて漁をしていたが、漁の最中にたまたま網にカニが引っ掛かり、村人たちは珍しくて高価な食べ物だとして重宝するようになった。その後、網代と田後の組合が相談し、鳥取県に提唱してこの「祝日」が生まれたという。
以上のようなすばらしい話を聞かせていただいた。今回で田後の祭りを中心に歴史のことを知ることができ、とても勉強になった。これをいかしてステップアップしていきたい。 最後に今回お話を聞かせて頂いた漁師の方々、住民の皆様、そして古泉さんに感謝申し上げます。ありがとうございました。(環境政策経営学科1年M.Y)
- 2010/06/25(金) 16:08:21|
- 景観|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0