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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

相谷熊原遺跡

 台風一過が近畿を去り、甲子園で八頭校が大敗した12日の午後、東近江市の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡を訪れた。
 あれは、5月の末だっただろうか、朝日新聞(大阪)の一面に小さな土偶の記事が掲載されていた。土偶のことはさっぱり分からないが、相谷熊原遺跡は縄文時代草創期後半(約13000年前)に遡り、大きな竪穴住居が5棟も発見されたという。かの土偶も直径8mの竪穴建物1の埋土から出土している。
 わたしは10年ばかり前、九州地方の後期旧石器~縄文草創期・早期の竪穴住居の調査指導をしていた。いわゆる定住開始期にあたり、テント状の構造物が少しずつ住居の内部を掘りくぼめていくプロセスを読み取れる。九州でみる縄文草創期の住居跡は円錐形テントの規模と近く、直径3~4m前後と大きくはないのだけれども、このたび相谷熊原遺跡は直径8mに達するものがある。遺構検出面から床面までの深さは0.6~1.0mを測る。

01相谷熊原01ビーナス 新聞記事を読んで、この大型竪穴住居が縄文草創期に遡るという発表をにわかには信じられなかった。これまで接してきた草創期の住居はこんなに深くて大きくはないからで、ありうるとすれば早期の竪穴住居だろうと思ったのである。しかし、現場に足を運ばないことには話にならない。あまり連絡をとりたくはなかったが、守山のノビタ氏(Mr.キューカンバー)にメールを入れた。かれを通して現場の担当者に打診していただいたところ、いつでも現場を見に来て欲しいとのお返事をいただいた。すぐにでも飛んでいきたいところだが、6月の下旬まで患者が吹田の病院に入院していたし、ご存じのとおり、生活時間のほぼすべてをワールドカップが支配するようになって、そのまま学期末に突入し、休むひまなく自らの発掘調査が始まった。今こうして短い盆休みを頂戴し、そのわずかな時間を使って、東近江に行くことを決めた。京滋バイパスで渋滞に巻き込まれたため、相谷熊原遺跡に到着したのは午後4時半をすぎていたが、担当者の方は我々の到着をお待ちくださっていた。申し訳ありません。
 雨があがって、1棟の建物の断面のはぎ取りをちょうど終えられたところだった。たしかに深い掘り込みをもっている。そして現場へ。圃場整備にともなう調査区は2区に別れていて、ビーナスが出土した竪穴建物1を含む南側のトレンチはすでに埋め戻されていた。わたしがみたのは竪穴建物2~5を検出した北側の細長いトレンチ。住居はすでにビニールでパックされていたが、その大きさや深さはよく分かる。竪穴の半分がトレンチの壁にかかっているので断面の状況も観察できた。

01相谷熊原03


01相谷熊原02hagitori


 問題は年代の根拠だが、現地説明会資料の記載(p.4-5)をそのまま引用しておこう。

  出土土器の種類としては爪形文土器と無文土器を確認しています。
  爪形文土器は施文が浅いことから、工具ではなく人の爪で施文
  されたものと考えられます。数量的には文様を施さない無文土器が
  多数を占めますが、これらは爪形文土器に伴うものと考えられます。
  出土した土器は無文のものが大半を占めることから時期比定が困難
  でしたが、数量的には少ないとはいえ爪形文土器が混じること、
  さらに押型文土器がどの建物跡からも出土していないことが特徴
  として挙げられます。押形型文土器は縄文時代早期の始まりの指標
  とされるもので、この土器がどの建物跡からも全く出土せず、
  爪形文土器・無文土器と共伴しないということは、竪穴建物跡が早期
  が始まる前には埋まっていたことを示す証左となると言えます。
  なお、竪穴建物1・4・5から土器について、土器に付着した炭化物
  を放射性炭素年代測定法(AMS法)で測定したところ、すべての土器に
  ついて、約13000年頃(紀元前11000年頃)という測定数値が出ています。
  
 以上の記述には説得力がたしかにある。ただ、遺構からみた場合、草創期における「定住開始期」の住まいというよりも、むしろ「定住安定期」の住まいと認識すべきものだろう。それだけ、住居が大きく深いのである。住居内のピットはランダムながら数が多く、おそらく建て替えや補修を繰り返した結果であり、厳密に柱穴を精査していけば、2期から3期の柱列の変化を読み取ることができるかもしれない。わたしのイメージでは、やはり「早期の住居」なのだが、それが土器や年代測定によって草創期まで遡るというのなら、わたしのなかでの縄文観の塗り替えをしなければならない。
 相谷熊原遺跡は、日本全体をみわたしても、突出した草創期の縄文集落遺跡であり、「保存」=「史跡指定」にむけての動きが早晩表立ってくるであろう。わたしが訪問した日の午前には文化庁の調査官も視察にきたそうで、今後の展開が非常に気にかかるところである。できれば、もう少しひろい範囲を発掘調査し、集落域の全貌を掴んでいただきたいと切に願っている。

01相谷熊原04

  1. 2010/08/15(日) 00:03:32|
  2. 史跡|
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