下層基壇敷石に残るホゾ穴 8月26日(木)。この日はA区の再実測とC区のレベル測量から始めました。前日はB区の長形大土坑で大量の五輪塔などに苦しみましたが、C区も礎石風の石列があり、なかなか測量が進みません。A区の再実測は、レベル測量組が苦戦している間も、着々と実測を済ませていきました。どうやら、昨日の間に修正箇所を細かくチェックしていたため、描き直しを早く終えることができたようです。
実測終了間際、3名のお客様と一緒に先生が現場に到着しました。そのお客様とは、開学当初から数年間、政策学科教授の職にあったT先生、そのお弟子さんのKさん(1期生OB)、そして現在本学で非常勤講師をされているM先生です。前夜、先生とお客様たちは、魏志倭人伝に記された「邸閣」について意見を交換しながら、楽しいお酒を酌み交わされたようです。なんでも倭人伝の記載が租税に関するもっとも古い文献記録なのだそうですが、浅川先生が倭人伝の建築用語を網羅的に分析した論文(「正史東夷伝にみる住まいの素描」)を書かれていて、それをまた佐原真さんが『魏志倭人伝の考古学』で引用されているので、驚いて浅川先生に連絡をとられたそうです。お三方は会計学をご専門とされているのですが、「邸閣」を学ぶうちに倭人伝の虜となり、今では九州や大和などで倭人伝に係わる遺跡をめぐる旅を続けておられます。ただ、発掘中の現場をみるのははじめてらしく、先生の実演する堀り方や遺構の出土状況、あるいはまた大きな岩陰を見て、歓喜の声を上げられていました。記念に私たちも一緒に写真撮影していただきました(↓)。その後はいつものコースで、岩陰・岩窟を経由して立岩(山頂)へと登っていかれました。
そして、A区の実測が終わったころ、先生が山頂からおりてこられ、ついにB区L字トレンチ下層遺構の検出が始まりました。


本文冒頭の写真にみるように、B区下層の遺構検出は、南トレンチの東西端から始めました。方針は以下のようにしています。
①まず、上層基壇上面にあたる三和土(タタキ)層を剥ぐ。
そこで遺構が検出されたなら、それ以上深掘りしない。
②遺構が検出されない場合、下層基壇上面にあたる凝灰岩石敷列まで下げる。
轟くんが担当した東端ではタタキ直下の下地のような土に凝灰岩の破片が混ざっている状態で、遺構らしきものはなく、また下層の凝灰岩石敷列もまだ発見できませんでした。一方、先生の担当する西端では、タタキ下地の面から黒い土が切り込んでおり、それを下げていくと、大土坑に隣接する位置で次々に凝灰岩(切石)が顔をあらわしました。しかも、その西端の大きな石には中心部分に正方形のホゾ穴が掘りこまれています。これをみた学生はみなブルッときました。鳥肌が立ったのです。先生によれば、おそらく柱の下面にホゾを造り出してこの正方形のホゾ穴に埋めていたのだろう、とのことです。とすれば、基壇の敷石だけでなく、柱の礎石も凝灰岩だったことになります。ただ、ひとつ気になったのは、ホゾ穴の方位が東西南北とずれていることです。柱が円柱ならホゾ穴の方向はどうでもいいですが、角柱の場合、こういうことはしないですよね。
ところで、先生によりますと、岩陰や岩窟を4名で見学されている際、T先生が「これが凝灰岩ですか?」と問われたので、「あぁ、そうか」と頷いたそうです。わたしたちがこれから懸命に追跡しようとしている下層の基壇化粧は、ほかでもない摩尼山に露出する岩陰・岩窟・立岩の石種と同一であるということで、これもまた下層基壇の古さを想像させる要素の一つになっています。年代については未詳ですが、少なくとも、下層基壇の凝灰岩切石は摩尼山のどこかで採掘されたものである可能性はきわめて高いでしょう。ひょっとしたら、岩窟や岩陰のえぐれは採石によるものかもしれない、という想像すらかきたてますね・・・これはおもしろいことになってきました。
明日のわたしの任務は、残っているD区のレベル測量が最優先となります。測量を早く終わらせて、わたしも速く下層遺構検出に加わりたいと思います。(部長)

↑凝灰岩敷石(下層)に残るホゾ穴
- 2010/08/28(土) 16:23:31|
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