下層遺構はいつの時代か 8月28日(土)。この日も下層遺構の検出をおこないました。昨日からL字トレンチの深掘りが始まり、この日はA区・B区のL字トレンチに加え、C区西壁沿いに設定した台形状のトレンチも下げていきました。昨日、轟担当エリアから出た凝灰岩石敷列の発見が刺激になって、この日の現場は下層遺構の検出に活気付きました。しかし、はやる気持ちとは裏腹に、午前中の作業ではそれらしいものが一向に出てきません。
沈黙を破ったのは、武蔵が掘り下げていたC区西側トレンチでした。C区西側トレンチは平坦地と崖の境目です。先生がガリで試し掘りすると、ほどなくして長形大土坑から連続する凝灰岩敷石が出てきました。これを武蔵が追っていくと、この敷石は平坦地側には伸びる気配を感じさせるものの、崖側では崖の少し手前で完全に切れていることがわかりました。この切れ目は南北軸というよりも崖に平行です(↑)。先日先生が検出された斜面(崖)の凝灰岩とどのように接続するのか、今後の展開が注目されます。また、このエリアからは上層のタタキと凝灰岩敷石の間から、瓦器風の土器片がいくつも出てきました。これらは上層遺構の竣工年代を知る重要な手がかりです。
部長が担当したA区L字トレンチは、深さ30センチになり、凝灰岩の粒がまじった「茶灰土」層(上層タタキ)の下から赤みがかった凝灰岩粒まじりの「赤褐土」層があらわれました。この層からは握拳大の凝灰岩片が2~3出るぐらいで、下層基壇敷石や礎石らしきものはみつかりません。試しに轟のエリアから出た凝灰岩石敷列とA区L字トレンチ底のレベルを比較すると、A区L字トレンチの方が10センチほど低いことがわかりました。仮にこのエリアの凝灰岩石敷が飛ばされていたとするならば、凝灰岩粒まじりの赤褐土層は下層の基壇土である可能性が高いでしょう。ここで、C区西壁トレンチから出てきた土器が正真正銘の瓦器であれば、上層が中世前半の造成ですが、下層基壇の築成年代は不明なままでした。

↑武蔵が発見した「瓦器?」 ↑エアポートが発見した「須恵器」
A区L字トレンチを東側から攻めていたきっかわさんのところから凝灰岩を1つ検出しました(↓)。轟担当のトレンチから一直線上にのびる部分で出てきた遺構なので、下層基壇は平坦地中央よりも東側にのびていることがわかりました。なお、轟が担当するB区のL字トレンチ東側では、昨日途切れていたと思われた凝灰岩敷石列は、そのすぐ横からやや下がったレベルで部分的に検出されました。
さて一向にな~んもにでないのが、エアポートが掘り下げるB区L字トレンチの北側です。しかも、上層のタタキを10センチほどめくると、下から上層なのか下層なのかよく分からない基壇化粧のような面が出てきます。下層の基壇化粧にしてはややレベルが高いので、非常に悩ましいところです。北側に向かって精査していくと、その化粧面が切れてしまったので、そのエッジから外側を5センチほど下げていくと、今度はやや赤茶けた凝灰岩粒まじりの層が出てきました。A区L字トレンチの凝灰岩粒まじり層によく似ています。現時点では、この赤い層を下層基壇土と判断しました。今後このエリアは地山まで掘り下げ、断面をみていく予定です。ところが、作業終盤に至り、トレンチを掃除していると、エアポート担当の下層基壇土から須恵器と赤褐色の土師器のような土器が出てきました。発掘調査開始直後、かなり上の層でみつかった
須恵器はとても薄いものでしたが、こんどのはかなりの厚みをもった平底の須恵器でして、年代が古くなりそうな期待に胸を膨らませた次第です。これらは下層基壇土から出てきた遺物ですから、下層遺構の竣工年代を示す稀少な証拠になるかもしれません。
下層遺構は平安時代前期まで遡るのか? 円仁開山伝承の真偽や如何に!?(Mr.エアポート)
- 2010/08/31(火) 00:22:03|
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