FC2ブログ

Lablog

鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

隴の道 -甘粛巡礼(上)

R0010670.jpg


天水紀行

9月2日 西安→天水  伏義廟、玉泉観
9月3日 麦積山石窟、仙人崖、自治巷保護院落
9月4日 南宅子(天水民俗博物館)、南郭寺  天水→敦煌

 西安から天水に向かう列車に乗り、3段ベッドの連なる「硬臥」席に横たわること4時間、車窓には黄土高原特有の景色がひろがっていた。日本を出発する直前、鉄道会社の都合で、急きょ「軟臥」席から「硬臥」席に変更が告げられた。どんなしんどい寝台車なのか、と心配していたが、「硬臥」席の旅も思いのほか悪くない。文字通り「硬いベッド」なのだが、畳に硬めの布団を敷いた感覚と似ており、慣れれば快適だ。
 既報のように、現在、ASALABは摩尼寺「奥の院」の発掘調査をおこなっている。今回の甘粛巡礼は、中国の石窟寺院をめぐり、絶壁に穿たれた石窟とそれを庇う木造の窟檐(くつえん)の関係性を探ることを目的としている。それは岩窟・岩陰を仏堂とし、その正面に懸造の木造建築を配する日本式の岩窟/絶壁型仏堂と系譜関係をもつのかどうか。それは、摩尼寺「奥の院」の復元研究に直結した課題である。
 日程の前半は天水の麦積山石窟(↑)を、後半は敦煌の莫高窟・楡林窟を中心に多くの文化遺産を訪れた。

DSC_0010.jpg
↑仙人崖 文革時に破壊された堂宇が岩陰に再建されている

 「天」に「水」と書いて「天水」。武帝の時代に天が裂け、天の河から水が流れ込んで土地を潤したという伝説に地名は由来する。現に、市内には多くの泉が湧き出ており、そこで汲み取られる水はこの地域の特産物にもなっている。また、そこが中国であることを忘れるぐらい空が青く澄んでおり、土地だけではなく気候にも恵まれていて、とても過ごしやすいところだ。地理学的にも興味深い。黄河の上流域と長江の上流域が交錯する分水嶺にあたり、華北の針葉樹を中心とする植生と華南の広葉樹・杉を中心とする植生が標高1,000m以上の高原に混交している。このような自然環境が土地の人びとを育んでいくのか、みな穏やかで、見ず知らずの私たちを暖かく迎えてくれた。ちなみに、天水は美女の産地としても名高い。
 天水到着後、駅を出ると各名所の方向を示した道路標識が目に飛び込んだ。なんと、天水の郊外域には麦積山石窟以外にも石窟寺院がいくつもある。一同、愕然とした。旅の後半、時間をかけてわざわざ敦煌まで行かずとも、天水を拠点とすれば、甘粛の無名の石窟寺院をつぶさに巡れるではないか。しかし、今回の天水の滞在時間では、とても、それだけの余裕はなかった。

 「のんびりとした旅もいいじゃないか・・・」

先生は残念そうにつぶやかれた。


DSC_0101.jpg
↑仙人崖 仙人湖から宝蓋山(ミニ麦積山)を望む

 天水の朝は少し寒い。それでもまだ半袖シャツで過ごすことが出来る。
 天水の2日目(9月3日)、麦積山石窟を訪れた。麦積山石窟は一山丸ごとが石窟寺院である。絶壁に200もの石窟が掘り込まれているとあって、その姿は圧巻というほかない。麦積山石窟の掘削は後秦から始まって北魏、西魏、北周、隋、唐に至る。唐代の大地震によって窟檐の大半が崩落してしまったため、その後は新たな岩窟は開削されず、五代、宋、元、明、清と補修作業がおこなわれてきた。崩落箇所はモルタルのようなもので窟檐の痕跡ごとパッキングしている。現在は観光のためだろう、絶壁にコンクリートの桟道がついており、間近で塑像や窟檐の痕跡を確認できる。岩窟上部の壁面には寄棟屋根が掘り込まれており、棟飾に鴟吻(しふん)がみられる。さらにその上部には、四角形の掘り込みが一直線上に並んでおり、窟檐の痕跡が多数みられる。間近でこれらを確認できるのは大変光栄なのだが、この桟道の高さ、一番高いところで地上から20m以上もあり、恐怖を感じずにはいられない。先頭を歩いていた先生はいつの間にか一番後ろで手すりにつかまりながら -かつて三徳山をくだるきっかわ嬢のように- 階段をびくびく下りておられた。

DSC_9842.jpg R0021893_20100910010633.jpg
↑麦積山 左:第43窟 鴟吻と軒先の構造 右:第164窟 飛鳥仏に似た仏像

 午後は時間があれば一番近い(といっても片道100km)大像山石窟に行こうとしたが、やはり時間的に厳しく、麦積山に近い仙人崖に向かった。現地ガイドは「自然しか見るものがない」というが、着いてビックリ仰天!山道をしばらく登ると、岩陰にずらりと堂宇が並んでいる。その岩陰はリーゼントのように極端に迫り出していて、堂宇が建立している岩盤は岩陰と一体のものでなだらかに続く。にわかに摩尼山の奥の院を思わせる。現在の建物は文化大革命による破壊後の再建だが、建物がたつ岩盤には柱穴の痕跡が数多く見られ、さらに奥に進むと岩陰に舎利塔が祀られている。摩尼山の発掘現場を彷彿とさせる風景に出くわしたのだ。文化大革命で前身建物が破壊されてしまったことが悔やまれる。
 その先には麦積山を縮小したような宝蓋山があり、絶壁には塑像や仏龕が掘り込まれ、窟檐の痕跡までみられる。麦積山のようなコンクリートの桟道はなく、ほとんど整備の手が加わっていない。塑像の劣化はすさまじいものだった。

R0011093.jpg
↑仙人崖 宝蓋山の岩窟群

 麦積山と宝蓋山は、お互いに意識して計画された可能性が高く思える。宝蓋山の開削年代は北魏で、宋、元、明に再建。案内板には麦積山との直接的なつながりは書かれていないが、仏龕の形状が麦積山のものとほぼ同じものだと記されている。ガイドブックはもっとこのことを強調すべきではないだろうか。(Mr.エアポート)

R0011055.jpg DSC_0053.jpg
↑仙人崖 左:岩陰に広がる岩盤 ところどころに柱穴が見られる 右:岩盤にみる柱穴

  1. 2010/09/17(金) 00:09:51|
  2. 建築|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
<<隴の道-甘粛巡礼(下) | ホーム | 摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅩⅨ)>>

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://asalab.blog11.fc2.com/tb.php/2308-244e332f

本家魯班13世

04 | 2021/05 | 06
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Archives

Category

Links

Search