下層礎石の正体 9月29日(水)。この日は各々が役割を分担し、以下のような作業をおこないました。
1 注記済み断面の写真撮影
2 下層遺構の礎石周辺の掘り下げ
3 残りの断面の線引き、作図
4 下層遺構の平面実測
まず、注記を済ませた断面をF4、デジカメを使い撮影。撮影する断面とその付近を綺麗に掃除し、各断面位置の写しこみを入れてから、断面の連続写真を撮影しました。撮影は作図した断面図をもとに同じ方向から、F4では断面を3~4mの遠景を撮影し、デジカメで2m程度近づき近景を撮影していきました。はじめてF4を手に撮影する学生。はたしてうまく撮れているでしょうか。
すり鉢状土抗で検出されたホゾ穴付凝灰岩の全体像をつかむため、土抗に設定していたトレンチの縄張りを拡大し、掘り進んでいきました。いつものことながら、整地土は硬く、地下には大きな樹根が多くはりついています。なかなか作業が進みませんでしたが、掘りひろげたところから大量の凝灰岩を発見。この凝灰岩たちは浮いているかどうか、まだ不明です。

↑拡張したすり鉢状トレンチ
C区とB区の間に設けている畦から検出された下層遺構の礎石と思われる石の周辺を掘り下げました。据付穴の面まで掘り下げていくと、徐々に石の姿が明らかに。さほど大きくない石のようで、さらに周辺を掘っていくと、礎石と思われていたこの石は、五輪塔の火輪(上下反転している)の部分であることが判明。一同ガッカリするも、火輪の中央に圧痕が残っており、自然石を根石にして、礎石に転用したかとも思われました。しかし、先生は一晩考えたあげく、おそらく「礎石の抜き取り穴にいくつかの石・五輪塔片を投棄した状態」だろうとおっしゃいました。五輪塔は平安時代末に起源しおもに中近世に制作されますが、下層遺構面から切り込むこの穴が礎石の据え付けだとすると、他の下層基壇土(整地土?)から出土した土器の年代観(10世紀ころ?)と矛盾します。一方、この穴を礎石等の抜き取り穴と考えるならば、下層遺構の廃絶にともなうものなので、五輪塔の年代がそのまま下層建物の廃絶年代に等しくなり、矛盾が少なくなるのです。
さて、反転した火輪は、ひっくり返して見ないことには分からないのですが、底面が25~30cm四方であり、たしかに今までで一番大きな火輪ではあります。火輪は屋根の背が高いほど古いという傾向があるそうで、この火輪が年代の中世に遡ることを祈るばかりです。

↑下層礎石抜取穴に投棄された3つの石(手前の3石:中央が火輪)と上層礎石(奥)
先生は断面の注記を引き続きおこない、27日にわずかに残ってしまった「C区西壁」、次いで作図が終了した「C区北壁」、「B区Lトレンチ東壁」、「A区西壁」の土層注記が終了。断面の作図は残すところ「B区Lトレンチ西壁」一面のみとなりました。
そしてこの日、大型カメラによる下層遺構撮影の日取りが10月3日(4日を予備日)に決定しました。写真撮影に向けて、明日から遺構全体の清掃をおこなわなければなりません。しかし、まずは、残されたB区Lトレンチ西壁の作図と注記を早急に終わらせなければ。その作図の担当はわたしです。(轟)

↑断面撮影
- 2010/10/04(月) 21:50:30|
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