最下層の掘立柱!? 10月7日(木)。この日も地山を目指すため、「C区西壁突出トレンチ」と「B区L字トレンチ南壁」の掘り下げをおこないました。併行して「岩陰トレンチ(Ⅲ区)」の掘り下げもおこないました。
C区西壁突出トレンチは上層基壇土の盛土あたりのレベルを掘り下げていくと、平らな礎石のような石を発見。上層建物に関係する礎石かもしれません。さらに掘り下げ、石の下の断面をみれば元位置が動いたものかの判別ができるでしょう。今までこのトレンチでは遺物の発見がなく、一同不安だったのですが、上層基壇土と推定される土層から土器片が発見されました。しかし、肝心の凝灰岩盤は未だに姿をあらわしません。このまま掘り進めれば、いずれC区西半の凝灰岩盤のレベルに到達するでしょうが、まだ岩盤のレベルには遠いため、C区の岩盤に連続する壁際のトレンチを設けて、岩盤を追っていくことになりました。果たして凝灰岩はどのように繋がっているのでしょうか...

↑C区西壁突出トレンチの礎石
同じく、地山を目指し掘り進んでいたB区L字トレンチ南壁ですが、こちらも地山らしきものはみつからず、凝灰岩混りの整地土がひたすら続くため、これ以上の深堀は危険と判断し、断面の作図に移行することになりました。深掘りする以前には水平に上層・下層の基壇土が堆積していましたが、その下側では斜面に平行な斜め方向の堆積をしています。これは加工段を造営する際の整地土とみなされます。もちろん下層に対応するものです。そして、火輪など3石が投棄された状態で検出された推定「礎石抜取穴」のさらに2層下に掘立柱の堀形と柱痕跡の断面が見事に残っています。上下層とも、礎石もしくは礎石抜取穴、あるいは岩盤に穿たれたホゾ穴などは少なからず検出してきましたが、掘立柱の痕跡をみつけたのは初めてのことです。加工段成形当初、山側の柱は岩盤のピットにおさめ、谷側では掘立柱にしていた可能性を示唆する証拠であり、注目に値します。すなわち、この加工段に建設された仏堂は、以下の3期にわたる変遷を遂げていた可能性が高くなったのです。
Ⅰa期(下層前半);山側が岩盤ピット、谷側は掘立柱。
Ⅰb期(下層後半):山側が岩盤ピット、谷側は礎石建。
Ⅱ期(上層) :山側、谷側とも礎石建。
つまり、一番古い建物は掘立柱であり、凝灰岩盤に空くピット(ホゾ穴)と複合しています。掘立柱の腐朽後、その廃絶面を整地した上で、掘立柱に近接する位置に礎石を据え付け、下層の廃絶後は、礎石の抜取を上層のタタキでパックし、異なる平面原理をもつ礎石建物に建て替えたものと考えられます。下層の場合、未だ一ヶ所の検出ではありますが、礎石とほぼ同じ位置で掘立柱の跡がみつかったことに注目すべきでしょう。最下層掘立柱建物の平面計画を利用し、礎石建に変更した可能性があるからです。
岩陰下トレンチ(Ⅲ区)↓の掘り下げは、太い樹根に阻まれ、作業は遅々として進みません。前回、表面の土を剥いだ際、現代の貨幣(10円玉等)が発見されたのですが、今回僅かに掘り下げた面でもまたみつかりました。したがって、表土を剥いだ後に出てきた硬い土層は昭和戦後以後の盛土と判断され、今後は一気に掘り下げることになりそうです。
さて、この日は後期プロジェクト研究2「歩け、あるけ、アルケオロジー」の1年生がはじめて現場にあがってきました。以前から報告している下側の加工段(Ⅰ区)の発掘調査は彼ら1年生が担当します。現場に到着後はいったん発掘中のⅡ区と岩陰周辺(Ⅲ区)を見学後、ついにⅠ区での表土剥ぎに着手しました。そのレポートは別にお伝えします。はじめて発掘調査を体験する1年生の顔が輝いて見えました。これから頑張って作業を進めなければなりませんね。(轟)
- 2010/10/13(水) 10:50:08|
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