石窟庵と仏国寺(上) 慶州良洞村を後にしたASALAB一行は、なぜか慶州のタクシー運転手に追徴金?をせがまれながらも、次なる目的地「石窟庵と仏国寺」に向かいました。「石窟庵と仏国寺」は先生、どんべえさんを除く3名は今年2月の慶州巡礼(2日目)でも訪れているのですが、当時は黒帯さんの卒業研究に直結するものとして、重要な意味を持っていました。今回の視察は、9月初旬におこなった中国甘粛省の石窟寺院等の調査に連続し、摩尼寺「奥の院」発掘調査および復元研究にも資するものと位置づけています。
石窟庵を2月に訪れた際、辺りは雪で覆われており、気温もマイナス5℃と耳がちぎれるのではないかと思うほど寒々しかったのを今でも覚えています。さすがに今回は10月下旬ということもあり、気温がマイナスなどということもなく、参道を歩けば紅葉とともに秋風を感じることができました。
まずは駐車場から見える大鐘閣を横目に入口を目指しました。チケット購入後、入口から伸びる参道を通り、石窟庵に到着。2月に雪で覆われていた石のドームもついに全景をこの目で拝むことができました(写真↓)。石窟庵は、南山で見た岩窟や中国石窟のように自然石をくり抜いたものではなく、花崗岩を積み上げた人工の石窟寺院です。内部は奥から主室、扉道、前室と続き、主室に本尊仏があり、壁には菩薩像等が彫刻されています。それはまさに我々の研究テーマとなる「石窟寺院への憧憬」を示す歴史遺産として注目すべきものでしょう。このことについては2月の記事と内容が重なるため、詳しくは
『慶州巡礼(Ⅱ) 吐含山 石窟庵』の記事をご参照いただけると幸いです。


この記事を執筆するにあたり、2月の記事と内容がかぶらないようにしなければならいないと思っていたのですが、石窟庵を見学している際にひとつだけ気になるところがあったので、それについて触れていきたいと思います。
世界遺産となり注目を集めている石窟庵ですが、じつはこの石窟庵の歴史には悲しい事実が刻まれています。石窟庵に向かう階段脇には、修復工事の際に交換し、使用されていない建材が陳列されていました(写真↑)。ここに横たわる石材の存在は理解するには、ある歴史を知る必要がありました。
統一新羅時代に作られた石窟庵は高麗時代まで創建された当時の姿を保っていました。しかし日本の朝鮮統治時代に入ってから盗掘にあい、また1913年からおこなった日本の3回の修復工事の失敗により当初の構造や仏像の位置などがわからなくなってしまいました。仏像の位置に関しては、発見当時の石窟庵の写真および事前調査の詳細な配置図がみつかり、日本の配置で正しかったと証明されています。この石窟庵は石を組み合わせて作ったにもかかわらず、1000年以上持ちこたえられる耐久性と、湿気などを除去できる構造をもっていました。しかし修復工事の際に石を誤って組みたてた上、3回目の工事で補修素材としてセメントを利用したことにより、石窟内部の換気が不可能となり、湿気が溜まり脆弱な姿となってしまいました。現在は保存のため後部を完全にセメントで塞ぎ、前室もガラスで閉じて人口的に換気をしているそうです。石窟庵そのものはなんとか維持されていますが、この場所を訪れる人たちにとってはガラス越しの観覧を余儀なくされているというが現状です。
元の位置戻れず、横たわる石は何も言葉を発することはありませんが、世界遺産として残る石窟庵をこの石たちはどのように見ているのでしょうか。(轟)
- 2010/11/25(木) 02:45:52|
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