室生寺と長谷寺 奈良では「懸造の宝庫」とも言える吉野の室生寺と長谷寺を見てまわりました。
室生寺は山々や渓谷に囲まれ、ひっそりとした雰囲気の中に佇んでいます。古くから聖地と仰がれており、やがて奈良時代末期に後の桓武天皇の病気平癒の祈願をこの地でおこなったことから、室生寺が創建されたとあります。また、高野山が厳しく女人を禁制したのに対し、女性の参詣を許したことから「女人高野」として親しまれてきました。山を背景に伽藍がひろがっており、自然との一体感をつよく感じられました。室生寺の金堂、灌頂堂、五重塔は国宝となっていますが、今回は懸造の金堂を中心に見学しました。
金堂は、室生寺の入口から仁王門を通り、左手の階段を登りきったところにありました。平安初期に建てられた金堂はいわゆる5間堂で、単層寄棟造の構造形式をしています。その足下に2段の石積があり、縁束と礼堂の柱の2列が下段に、残りが上段にありました。縁束は四角形で、柱は床下が八角形で床上は円形でした。中央3間分、4本の縁束はそれぞれ礼堂の柱と、貫でつながっていました。懸造というと、三徳山投入堂がぱっと思い浮かびますが、室生寺金堂の懸造は私たちが調査に行った倉吉の長谷寺に近いイメージでした。
金堂を正面から見た後、横に回ってみると屋根の形に驚きました。正面から見ると一見普通の寄棟屋根なのですが、側面から見ると、奥から4間のところまでで寄棟屋根がおさまり、そこから縁のところまでは後から付け足したように庇が伸びていました。これは、実は奥の正堂部分が平安初期の建物で、江戸時代になってからその前面に礼堂を1間加え、またそのときに懸造となり、このような庇を加えたとのことです。なお、当初は入母屋造であったが、数回にわたって修理され、現在に至るようです。周りの木立に囲まれている金堂は物静かな雰囲気を醸し出していて、とても心落ち着く場所でした。

上:金堂正面 下:金堂側面


長谷寺は室生寺からそう遠くないところにあり、こちらは初瀬山を背景に伽藍がひろがっています。室生寺と同じく山を背にしてはいますが、室生寺よりも開けた場所に位置するため、印象が全く異なります。寺伝によると、朱鳥元年(686)、道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」を初瀬山西の岡に安置し、新亀4年(727)徳道上人が東の岡に本尊の十一面観世音菩薩を祀ったことから始まるといわれています。長谷寺は別名「花の御寺」とも呼ばれ、牡丹でよく知られています。
仁王門をくぐると本堂まで登廊が続いています。この登廊は本堂にたどり着くまでに2度折れ曲がっており、かなりの距離がありました。本堂に到着すると、そのスケールの大きさに驚きました。本堂は、徳川家光の寄進を受けて慶安三年(1650)に建立されました。入母屋造の正堂と礼堂、それをつなぐ相の間からなっており、礼堂前面が懸造になっていて間口4間、奥行3間の舞台があります。正堂は間口7間、奥行4間で、相の間および礼堂は間口9間、奥行4間となっています。礼堂床下部分の柱や舞台を支える柱は八角形、礼堂の周囲の縁を支える束は四角形となっており、それぞれが貫でしっかりと固定されていました。床上の柱はすべて八角形から円柱に変わっていました。
舞台からの眺めは良いものでしたが、とにかく建物の大きさに圧倒されてしまい、景色や自然よりも建物が主役になっていると感じました。京都の清水寺よりは小さいですが、長谷寺の本堂に立ったときの印象は、清水寺と近いものがありました。建物自体が大きく、周囲は植物で覆われているため、全景を見るのも困難なほどでした。

周辺環境も規模も異なるので、同じ懸造でも違っているというのは当然のことですが、受ける印象が全く異なりました。とくに熊野古道や室生寺などは建物が小さく自然と一体的な印象を受けたので、ものすごく立派な本堂などを持つ長谷寺には圧倒されました。建物がここまで大きく立派になると、主役は自然ではなく、建築になってしまいます。こうなると、「聖性」を感じるというよりも、建築そのものを見て楽しもうという気持ちになるように思いました。自然と一体化することで、霊場の空間が聖性を保ちうるように感じたのは私だけでしょうか。(部長)
- 2010/12/27(月) 00:05:48|
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