龍岩寺奥の院礼堂 豪雪が北陸や北日本を銀世界に変えた25日、大分の山間部でも雪が舞った。宇佐の行場は冷え冷えとしている。
院内町大門の清浄山龍岩寺には「奥の院」がある。急勾配の石段を駆け上がっていくと、民家のような本堂があり、そこで入山料を払って奥の院の参道に足を踏み込む。石段は続き、岩盤を穿つトンネルをくぐると、絶壁から飛び出した懸造の「礼堂」が視野におさまった。
ここ2~3年、こういう岩窟型仏堂を求めて日本、韓国、中国を彷徨ってきたが、日本型の岩窟型仏堂は本来こういうものではないかと思っていた、その「仮想の典型」にようやく出会った。岩窟のなかには阿弥陀如来を中央に、向かって右に薬師如来、左に不動明王を配する。石仏でも塑像でもではなく、大きな木彫の座像である。その前に懸造(かけづくり)の礼堂(らいどう)が建てられ、3体の木像を保護している。この懸造建築はたしかに礼堂ではあるけれども、岩窟の上部から外側に向かってのびる片流れ屋根の素朴な建物で、中国石窟寺院の「窟檐(くつえん)」を彷彿とさせる。岩窟型仏堂の外側には、こういう差し掛け庇のような「礼堂」兼「窟檐」のような施設があっただろうと密かに思い続けてきて、その実物に初めてであった。

翌26日、臼杵の石仏も参拝した。石仏を納める岩窟の外側で礎石が発掘されているので、石仏の覆屋が存在したことはまちがいない。いま石仏を保存するために神社の拝殿のような大きな建物を構えているが、わたしは、臼杵の石仏を保護していたのも、龍岩寺奥の院のような「窟檐」的礼堂ではなかった、と思っている。
龍岩寺奥の院礼堂は、いままさに轟とエアポートが取り組んでいる摩尼寺奥の院の復元建物にとって欠くべからず資料であるので、ここに少し多めに写真を掲載しておこう。なお、龍岩寺は天平18年(746)、僧行基による開山という伝承があり、礼堂は鎌倉時代の建立とされる(重要文化財)。桁行3間×梁間2間。平屋の懸造。片流板葺。棟木下端に、「奉修造岩屋堂一宇□□□ 弘安九年丙戌二月二十二日 大旦那沙弥」の墨書銘がある。豊後でもまた「岩屋堂」という呼称が使われている点、興味深い。


↑床上の柱を立てる柱盤の下のみ大引が「吹き寄せ」になっている。組物は舟肘木。

↑基礎は岩盤に穴をあけ、面取角柱を落とし込む。

↑↓内部。きわめて素朴な構造。
- 2010/12/28(火) 00:10:30|
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