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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

六郷満山の中心と周辺(Ⅱ)

1227熊野磨崖仏01


胎蔵寺奥の院の流造

 古代中世の国東半島に華開いた六郷満山の仏教遺産(というよりも神仏習合の遺産)は、山陰の山嶺で盛行した密教・修験道の空間的世界を復元する上で、このうえないモデルを呈示する。わたしが大分を訪れた目的はむしろ伝統的建造物群と文化的景観にあったのだが、豊後高田や田染荘小崎や杵築城下町を視察する過程にあらわれる国東半島の寺院群にはなべて「奥の院」が存在し、そこには絶壁を穿つ岩窟と複合した懸造建築があたりまえのように建立されているのである。よくもまぁ、この段階になって六郷満山の「奥の院」にであったものだ。大学4年次から「杵築の町づくり」に係わり、21世紀になってからも横尾縄文遺跡の委員としてなんども大分に足を運んでいたにも拘わらず、今日のこの日まで六郷満山の仏教遺産に気付かないでいたのである。

 山陰では、たとえば八頭町柿原の窟堂(いわやどう)がそうであるように、いまは謎の岩窟だけが残り、正面に存在したはずの懸造建築が失われている場合が少なくない。柿原の類例をもちだすまでもなく、わたしたちが4ヶ月ものあいだ悪戦苦闘した摩尼寺「奥の院」こそがまさにその様相を呈している。国東では、山陰で失われた岩窟正面の木造建築がいまも姿を留めているのである。その理由を考えた。単純なことだと思っている。国東半島は、半島全体が両子山(ふたごやま)を頂点とする山嶺の群体であり、多くの山に仏寺を構えているのだが、境内を「麓」に移設したり、新たに展開することができない。新しい仏堂を築くといっても、所詮は山の上にあって、いわゆる「奥の院」は主要堂宇の間近にある。間近にあるから、今も信仰の対象として息づいているのであろう。

1227熊野磨崖仏03参道02

 分かっていただけるであろうか。たとえば、三徳山を例にとるならば、本堂から投入堂までの山道は生死をかけるほどの厳しい行場であり、往復に要する時間も短くない。摩尼山もその例に漏れまい。
 豊後高田市の熊野磨崖仏を例にとろう。本堂から奥の院までの高低差は100mあるが、歩行距離はわずか350mにすぎない。少し足をのばせば「奥の院」に辿りつくのである。国東半島を構成する田原山(鋸山)の山麓に今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ)が境内を構える。茅葺き寄棟造の本堂と護摩堂が軒を連ねる姿は民家と変わらない。そこから急峻な山道を10分ばかりかけあがると、崖の岩を彫りあげた2体の巨大な磨崖仏があらわれる。 むかって左が不動明王、右が大日如来。前日、臼杵の石仏を訪れていたので、どうしても比較したくなる。わたしは仏像の素人なので、価値はよくわからないが、年代はほぼ同期(平安後期~鎌倉前期)か、熊野のほうがやや早いと推定されているようだ。臼杵の石仏群は数も多く、精緻な彫刻であり、国宝にして特別史跡に指定されている。文化庁が最上級の評価をしているということである、一方、熊野磨崖仏は規模では臼杵を圧倒するが、ややラフな創りではある。しかしながら、なんとも剽軽な顔をした不動明王に思わず親しみを覚えてしまう。恐れおおいことだが、その御顔をみて、笑みがこぼれてしまった。愛すべき磨崖仏である。こちらは重要文化財にして、史跡に指定されている。これでも相当高い評価であるが、臼杵より年代がやや古くて、大きいのだから、国宝にすればよいと思うのはわたしだけだろうか。

1226臼杵01
↑臼杵石仏。新しい覆屋によって保護されている。
1226臼杵02礎石
↑同上。覆屋建設中にみつかった鎌倉時代の礎石。


1227熊野磨崖仏02奥の院02


 建築を生業とするわたしが驚愕したのは、磨崖仏からさらに50mばかり上がった「奥の院」に建つ熊野神社である。三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の本殿が岩窟にくい込んでいるではないか。本殿は舟肘木の組物でやや派手にみせるが、絵様はなく、年代はよくわからない。ただし、権現造のように本殿と一体化してみえる拝殿の絵様は、18世紀の様式を示しており、そのころの「再建」であろう。このように、「奥の院」に神社を配する傾向のあることが六郷満山の特徴であり、山陰以上に神仏習合の匂いが強い。それは、いうまでもなく、宇佐神宮の影響である。六郷満山33寺は天台宗と宇佐八幡信仰の習合の場であり、実質的には宇佐が半島を支配していたとも言われる。山陰の場合、出雲大社がその役を果たしていたわけだが、出雲以外の地域では大社の影響力は弱くなる。

1227熊野磨崖仏02奥の院01


 昨日は、宇佐にある龍岩寺奥の院の「片流れ」礼堂を紹介した。熊野神社の本殿は、それが一歩進んだ招き屋根の「流造」である。進化論的にとらえるならば、岩窟仏堂の保護施設兼礼拝施設として「片流れ」屋根が「流造」(すなわち招き屋根)に展開するのは、ごく自然のなりゆきであろう。問題はここから先である。当然のことながら、入母屋造(いりもやづくり)の覆屋がつくりたくなる。三仏寺投入堂の屋根も、平安時代に流行した古い入母屋造の形式をしている。しかし、投入堂のように小さい屋根では、大きな岩窟を隠せない。ならば、どうすべきなのか。
 その答えを、わたしは六郷満山の別の寺院でみた。もちろん「奥の院」において。それは、次回のお楽しみということで。(続)

1227熊野磨崖仏04護摩堂01


  1. 2010/12/29(水) 00:35:32|
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