両子寺奥の院「本殿」懸造 国東(くにさき)が両子山を頂点とする円錐形の半島であることはすでに述べた。地形の全体をみれば、済州島のようになだらかだが、ところどころに巨岩・奇石が屹立し、両子山の子どものような小峰が競い合っている。小峰ごとに寺院が境内を構えたから、最盛期には65ヶ寺、いまでも33ヶ寺を数えるのであろう。その寺院は、宇佐八幡の境外神宮寺のようなものであった。いずれも天台宗の寺院だが、初期山岳仏教、天台密教、八幡信仰が混然一体となった独特の山岳信仰をそこにみることができる。
半島のいただきに近い六郷満山総持院の両子寺は、正確には「足曳山両子寺」という。両子山頂を近くに望めるが、その麓に境内を構えたのではなく、少し離れた足曳山を行場としたということであろう。ここにももちろん「奥の院」がある。本堂から7分だと教えられ、さっそく川向かいの参道をめざした。ふと越後の永平寺を思い起こした。川が庭になっている。護岸に庭石が置かれ、苔むした石の合間に躑躅(つつじ)が数多く植栽され剪定されている。その川にかかる石橋をわたり、石段を登った。鳥居には「両所大権現」の扁額がかかっている。

ほどなく「奥の院」に辿り着いた。熊野磨崖仏と同じ垂直の絶壁がそこにはあり、その正面に派手な入母屋造の「本殿」が前方の谷に向かってせり出していた。それほど床の高い懸造ではない。ただ、千鳥破風と軒唐破風のついた入母屋造平入の屋根と縁をめぐる赤い欄干に強く目をひきつけられる。銅板葺きの屋根は棟を岩肌に密着させている。雨漏りを防ぐために裏側でそこそこの工夫をしていることだろう。見方を変えればこういうことである。平入の入母屋造「本殿」が棟筋で二等分され、その前面のみ屋外に露出されているということだ。崖の内側に本殿はくいこんでいて、内陣の仏像たちを保護しているわけだ。本尊は十一面千手観音であり、向かって右に宇佐八幡神、左に仁聞菩薩を配するだけでなく、観音と八幡神・仁聞菩薩のあいだに2体の両子大権現を置く。ここにいう仁聞菩薩は、六郷満山の文化を語るにさけて通れない存在である。六郷満山の多くの寺院は、仁聞菩薩が養老2年(718)に開いたという縁起をもっている。仁聞は、宇佐神宮が奈良時代に境内に築いた弥勒寺の僧であるとも伝えられるが、その実在は疑わしい。実際には、弥勒寺の複数の天台僧が半島の山に分け入って次々に寺を設けたのだろうと推定されている(『日本の仏像44 臼杵磨崖仏と国東半島』2008)。

↑本殿内部。↓本殿懸造脚部


驚いたことに、両子寺の奥の院では、本殿の裏側の岩窟に入れるようになっている。奥の院の「岩屋洞窟」には「石造千手観音と不老長寿の霊水あり」との札があり、中に入る片開きの板戸があいていた。ここにみる絶壁と岩窟が人工のものであることはあきらかであり、前方に築かれた本殿の建築が江戸時代のものであるのはあきらかだが、絶壁と岩窟の造営年代があるいは仁聞菩薩の時代に遡るのではないか、という期待に胸が膨らんだ。
一方、本殿の建築は禅宗様の匂いがつよい。反りの強い尾垂木をもつ二手先の組物や火頭窓、そして拳鼻の意匠にその傾向が顕著にあらわれている。また、拳鼻の絵様は、渦が円形に近い、彫りも細めなので、18世紀の「造替(再建)」とみればよいであろう。
『稲葉民談記』に描く摩尼寺「奥の院」には2棟の重層入母屋造の建物が方位をずらして描かれている。前方の楼造の建物が、今回わたしたちが発掘調査で検出した建物であり、おそらく岩壁に接する位置にもう1棟の二重入母屋造の建物が存在したはずである。実際、Ⅲ区のトレンチ調査では、岩陰の真下で柱穴を検出したのである。その建物は、龍岩寺奥の院でみた片流れではなく、熊野権現奥の院のような流造でもなく。入母屋造に復元しなければならないわけだから、両子寺奥の院両所大権現の入母屋造平入の懸造は非常に重要な類例に位置づけられるであろう。ただし、これは平入の例である。
明日は妻入の例をレポートしよう。

↑縁と絶壁の接合部分。扉のむこうに岩窟内仏堂があり、石造の千手観音が祀られる(上の写真)。
- 2010/12/30(木) 01:33:02|
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