文殊仙寺「奥の院」妻入型懸造 みなさん、大晦日ですよ。
紅白歌合戦は紅組の植村花菜「トイレの神様」と坂本冬美「また君に恋している」を応援します。後者は、すでに小生のカラオケレパートリーになっておりますが、ビリーバンバンのオリジナル・バージョンでないと音域があいませんね。
さてさて・・・54回目の誕生日でございます。
ハッピィ・バースディ!! なんて、喜んでる歳じゃありませんやね。
大分を旅しているあいだ、レンタカーでずっと青江美奈のN.Y.録音CD2枚をかわりばんこに聞いていたんですが、そのなかに「淋しいときだけそばにいて」という名曲が含まれてましてね・・・
一年たつのが ほんとにはいよね
誕生日さえ この頃うれしくなくて
という出だしでありました。まったく、その通りの歳になってしまいましたぜ。
年賀状もようやく投函しました。今年は経費節約の折、写真屋さんには出さす、ワードで作りました。ある町並みを背景に使っていますが、そこがどこか分かるかたはご一報ください。賞品をさしあげましょう。

話は峨眉山(がびさん)に飛びます。中国四川省の峨眉山、つまり中国三名山のうちの峨眉山ではなく、国東半島の峨眉山。パクリもここまで来ると引用するほうが赤面してしまうというか、なんとも言いようがありませんが、国東半島の峨眉山に文殊仙寺というお寺があるのです。648年、役行者の開基と伝えられているから、六郷満山33ヶ寺のうち縁起がいちばん古いのかもしれません。なんでこの寺の始まりは仁聞ではなく、役小角なのか。要するに、三徳山タイプの縁起をもっていて、宇佐八幡より1世紀古く起源を遡らせている。奥の院には役行者を祭る岩窟が残っています。あちこち密教系の山を歩いてきましたが、役行者の像(↑)をみたのははじめてではないかなぁ。


看板案内にしたがって、少し詳しく縁起を整理しておきましょう。
役小角は豊後国国東峨眉山(文殊山)に登り、此地を開き住す。
乃ち中国五台山を感得、文殊菩薩の尊像を奉安する。故に
文殊仙寺と曰う。山上水無し、小角自ら独鈷を執り岩角を打てば
冷水湧出。故に文殊智水と名づく(豊鐘善鳴録、豊後国志)。
・・・(略)・・・古来より宇佐八幡宮との連携、神仏習合の
形態を保つ山岳修験、六郷満山峰入行の修法を伝承している。
また、別の看板には次のようにも記してあった。
当山文殊仙寺は648年、役行者の開基とされ、奥の院で座禅観法し、
文殊師莉菩薩を奉安されたと言われている。

岩窟に鎮座する行者の坐像は、開山の際の「座禅観法」を表現するものであろうか。岩窟にほぼ接するように文殊堂が建てられている。この「奥の院」文殊堂を、ここでもまた「本殿」と呼ぶ。「宇佐八幡宮との連携、神仏習合の形態を保つ」証しの一つと言えるだろう。本殿の構造形式は両子寺と似て、開鑿した絶壁に入母屋造の懸造建築を半分だけくっつけたものだが、両子寺が平入であるのに対して、文殊仙寺では妻入の形式とする。正面の内陣に文殊菩薩を祀るが、その奥の室外に祭場はないようで、その代わりに本殿脇に行者岩窟を設けているのであろう。
本殿の形式は両子寺と同様、禅宗様の影響を受けている。柱の粽や台輪がその代表である。組物はややおとなしく、出三斗に拳鼻をつけたもので尾垂木は使っていない。軒は二軒、平行疎(まばら)垂木。拳鼻の絵様も両子寺本殿とよく似ており、18世紀の造替とみればよいだろう。
両子寺の平入形式と同様、こういう妻入形式も摩尼寺奥の院では十分ありえただろう。建築の組み上げを考えると、妻入のほうが楽かもしれない。復元の有力な候補として分析の対象に加える必要があるだろう。(続)
- 2010/12/31(金) 01:05:15|
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