杵築の想い出 大分県に重要伝統的建造物群保存(重伝建)地区は1ヶ所しかない。日田市豆田町の商家の町並みである。日田と言えば、2008年末に皿山の重要文化的景観「
小鹿田焼の里」を訪れている。あのときは佐賀・久留米を拠点に動いていて、福岡の「うきは」重伝建地区を経由して「小鹿田焼の里」を視察したのだが、時間がなくなって久留米に直帰した。今回は大分を拠点としていたのだが、日田は遠かった。そこまで足をのばす余裕がなかったのである。

ただ、新たに重要文化的景観に選定された豊後高田の「田染荘小崎」(↑)は視察した。天気の良い日で、長閑な中世荘園の田園景観を撮影し、その後、六郷満山を周回し、頂きに近い両子寺をめざしたのである。
重伝建の日田豆田には行けなかったが、大分には重伝建以外の制度によって町並み保全に取り組む自治体が非常に多い。今回は豊後高田の「昭和の町」を手始めに、大分市中戸次(なかへつぎ)、由布院市湯平温泉、杵築、臼杵、佐伯で町並み保全の取り組みを視察した。なかでも、わたしにとっていちばん想い出深いのは杵築の町並みである。大学4年次から修士1年次のころ、所属していた地域生活空間計画講座で、国土庁委託の「歴史的環境を活かした杵築のまちづくり」事業調査に参加していたのである(報告書は『杵築のまちづくり』1981)。

わたしの担当は漁村だったが、もちろん杵築城下町をなんども歩いた。杵築の見どころは酢屋坂の景観である(↑)。谷筋の町人町(商店街)を挟んで北台と南台の武家屋敷群があり、北台から南台を望む酢屋坂のパノラマ景観はいまもなお見事であった。ただ、商店街は大変わりしている。まるで彦根のキャッスル・ロードのようだった(↓)。おそらく道路拡幅がなされたのであろう、古い町家の敷地の一部が削りとられ、古めかしいくみえるけれども新しい町家や蔵が軒を連ねている。ひと言でいうならば、文化庁系の町並み保存ではなく、国交省系の町並み環境整備であり、「作られた歴史的環境」という印象が否めない。わたしたちの立場からみれば、あまり歓迎すべき環境整備とはいえないけれども、かりに観光客が大幅に増えているとすれば、そのような活動を否定できるわけでもない。ただ、北台と南台の武家屋敷群がよく残っているだけに、町家地区さえきちんと保全していれば、十分重伝建に選定される資格があったろうにと惜しまれる次第である。

臼杵城下町の状況も杵築と似ていた。ふぐ皮蕎麦を食べたあとに立ち寄った醤油屋さんで「くちなしアイス」を舐めながら、地元のおじさん、おばさんにお話を聞いたところによると、「アーケード商店街が良くなかった」のだそうだ。昭和30年代、商店街にアーケードをかけるというので、そのおじさん反対したという。当時、東京の大学にいた、そのおじさんは、「東京ではすでにアーケード商店街が流行遅れになっている」ことを訴えたのだが、聞き入れられず、商店街にアーケードがかけられた。しかし、売り上げはさっぱりで、杵築の町づくりが進んでいるころ、臼杵では「アーケード撤去」が問題化していたらしい。結局、アーケードを外して「古い町並みに戻した」のだと説明された。しかし、わたしの目には、町並みが「元に戻った」ようにはみえない。文化庁系の「復原的修景」ですら嘘くさいのに、目の前にある町家たちは「作られた歴史的環境」というほかないものであった(↓)。観光客の数も思ったほどのびていないらしい。臼杵の場合も、武家屋敷や寺院はよく残っているので、町家さえきちんと修景していればと惜しまれる。

佐伯城下町の場合は、町家地区の整備は進んでおらず、ただ城山麓の西町武家屋敷群のみが残っている。国木田独歩の旧宅が有名(↓)。独歩邸の公開はしているけれども、休憩の茶店や土産物店はほとんどない。

昭和の町並み 豊後高田「昭和の町」は評価に値するだろう。全国的にみて、昭和(とくに戦後)に焦点を定めた町並み整備(↓)をしているところは数少ないわけだから、あと20年もすれば、さらに脚光あびる可能性がある。いま竹蔵が映画館の設計をしているが、「昭和座」という元映画館(↑)を発見し(隣の食堂で焼きうどんを食べた)、ただちに携帯に写真を添付して送ったのだが、役にたっているだろうか。

湯平温泉は3階建戦後の湯館が軒を連ねており、独特の町並みを形成している(↓)。ボンネットバスでも有名。温泉と「昭和」を重ね合わせようとしている。

大分の中戸次も江戸末期から昭和初期の町並みを複合的に整備しようとしている。 大分市内の隠れた町並みスポットで外国人客も散見された。典型的な国交省系の町並み環境整備事業地区である。富春館(帆足万里旧宅↓)の活用はなかなか見事だった。大きな土蔵を改造したカフェの雰囲気は非常によく(↓↓)、和三盆を使ったスウィーツも上品で美味しかった(ただ、紅茶の淹れかたがよくありませんね)。

今回訪問した大分の町並みは、すでに述べたように、文化庁の重要伝統的建造物群保存地区ではなく、国交省の町並み環境整備や経済産業省の事業を活用したものである。そのため、町並みを江戸・明治期に「復元的修景」するというよりも、「新たな歴史的環境を作ろう」という機運を強く感じられた。いま県環境学術研究費で進めている倉吉の場合、文化庁の重要伝統的建造物群保存地区であるから、これら大分の町並み整備の手法をそのまま参照することはできないが、経済・観光の活性化という点では倉吉にも部分的に導入可能な取り組みがあり、とりわけ「昭和」という時代を意識した重層的町並み整備が、多方面に触覚をはたらかせている観光客をつなぎとめる媒体になりうる素材であるのはたしかであろうと思われた。
- 2011/01/03(月) 04:55:06|
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