「いわや」と「かけや」 国東半島六郷満山諸寺院の「奥の院」を駆けめぐりながら、案内の看板をなんどかみるにつけ、「岩屋(いわや)」と「掛屋(かけや)」という言葉が対比的に、そして、ごく自然に使われていることを知った。さすが磨崖仏と懸造仏堂の本場だけのことはある。
「いわや」という概念は山陰でも常用されている。若桜の不動院岩屋堂の「岩屋」がそれであり、柿原の窟堂も「いわやどう」と読む。絶壁に掘り込んだ横穴を仏堂とする場合、その全体を「いわや」と呼ぶわけだ。一方、「かけや」という言葉については、管見のかぎり、鳥取や島根で聞いたことがない。しかし、それが懸造の建物をさすのはあきらかであり、日本語として、「かけや」以上にふさわしい用語を探すのも難しいだろう。「いわや」と「かけや」はそれぞれが独立した概念というよりも、複合的に意識されたものであるのもほぼ間違いない。「いわや」を掘って仏像を祀る場合、その正面に「かけや」をつくって風雨を避け、かけやのなかで人びとは礼拝する。それが六郷満山をはじめとする大分の山岳寺院「奥の院」ではあたりまえになっている。わずか3泊4日の大分視察ではあったが、その事実を知ったことの意味は大きい。山陰では「岩屋の前には掛屋があったのだろう」という推定の域をでないのだけれども、大分では「岩屋の前には掛屋があった」と言い切ってもよいのである。
ここでは、あと4つの例を紹介しておこう。
1.元宮磨崖仏 豊後高田市の重要文化的景観「田染荘小崎」に近い字(あざ)真中に境内を構える元宮八幡神社(田染八幡神社)に隣接する小さな磨崖仏群(国史跡↑↑)。絶壁をわずかに掘って仏龕とし、不動明王を中心にして、向かって右に矜羯羅(こんがら)童子と毘沙門天、左に持国天と地蔵菩薩を配する。矜羯羅童子は不動明王の脇侍である。いまは欠落してしまっているが、不動明王と持国天のあいだにも、不動明王の脇侍「制咤迦(せいたか)王子」の小像がかつて存在した。石仏は室町時代の作と推定されている。2001年に覆屋をかけているが、これはあくまで現代のものであり。崖面にはほぼ左右対称に仏像群の上下に木材仕口穴の痕跡を残す(↑)。仏像上部の仕口痕跡が水平ではなく、上下しているので、「掛屋」は小さな入母屋もしくは寄棟を半割したものであった可能性が高いであろう。
2.長岩屋山天念寺 豊後高田市長岩屋の絶壁に沿ってたつ寺院と神社の複合施設。他の多くの寺院と同様、養老二年(718)仁門菩薩の開基と伝える。中央に身濯神社(みそそぎじんじゃ、旧六所権現)を置き、向かって左に茅葺き妻入の講堂掛屋、右に本堂岩屋を配する。

絶壁の背後には「天念寺耶馬」とよばれる奇岩秀峰が連なり、「峯入り」と称する山岳修練の最も重要な寺院であり、かつては十二坊を備えた。岩屋堂形式の講堂では、旧正月七日に赤鬼と黒鬼が松明を持って暴れまわり、国家安泰・五穀豊穣・万民快楽を祈願する「修正鬼会」が開かれる。右手の本堂岩屋には主尊に薬師如来座像、脇侍に月光菩薩立像、吉祥天立像などの平安仏を安置する。ここにも、当然、掛屋が存在したであろう。道路を挟んで正面を流れる長岩屋川の中には「川中不動」と呼ばれる磨崖仏もある。大雨のたびに氾濫を繰り返してきた長岩屋川の水害除けを祈願して江戸時代中期に刻まれたものという。川中不動尊は修復中、講堂・神社も屋根葺替えや修理の最中であった。
参考サイト:http://blogs.yahoo.co.jp/ruriironohahasama/15529161.html

↑川中不動尊 ↓天念寺本堂

3.石立山岩戸寺 国東町の石立山岩戸寺も、養老二年(718)仁聞菩薩の開基と伝える。仁安年間(1166-68)の『六郷二十八山本寺目録』にその名がみえ、室町時代の『六郷山定願院主目録』には「天ノ岩戸寺徒十二坊・・・三十仏三十神」とある。岩戸寺宝塔と呼ばれる国東塔が重要文化財、岩戸寺修正鬼会が重要無形民俗文化財としてよく知られている。鬼会の舞台となるのは「奥の院」に近い茅葺き五間四方の講堂で、講堂から参道の石段を駆け上がると正面に薬師堂があらわれる。薬師堂の向かって左側には、大きな敷地に六所権現(神社)の本殿が鎮座する(下左)。本殿は妻入入母屋型の掛屋である。向かって右側の奥には「鬼岩屋」と名付けられた洞穴がある(↑)。修正鬼会の際、鬼はこの洞穴からでてきて、講堂まで下りていくのである。

さらに右手には、片流れ屋根の掛屋が岩屋と複合した子安観音(←右)があり、その奥に「明賢洞」という洞穴がある(↓)。訪問時にはすでに日が暮れていて、あたりは暗く、いったい何の場所なのかよく分からなかったが、屋根のない小さな岩屋が洞穴の中にあった。どうやら経典と係わるようである。
4.高瀬石仏 七瀬川右岸の加羅に所在する国史跡。数少ない石窟形式の磨崖仏として知られる。高さ1.8m、幅4.4m、奥行1.5mの小さな石窟のなかに5つの石仏を彫りだす。中央に大日如来、向かって右に如意輪観音と馬頭観音、左に大威徳明王と深沙大将を配す。平安時代後期(12世紀後半)の作と推定されている。石窟手前の崖面には小さな龕(がん)があり、1本の蓮の茎から三つに枝分かれした蓮華の上に阿弥陀三尊仏の安座する姿が浮き彫りされている。こうした一根三茎仏は白鳳時代(7世紀後半)に盛んに造形されたが、大分では平安後期まで継承されていたことがわかる。ごらんのとおり修復中であり、「掛屋」の痕跡等は判別しにくかったが、同年代の臼杵石仏などからみて、それを伴った可能性は非常に高いであろう。

- 2011/01/05(水) 02:46:22|
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