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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

六郷満山の中心と周辺(Ⅶ)

大分と山陰の比較

 六郷満山を中心とする大分の山岳寺院「奥の院」でみた岩屋(いわや)と掛屋(かけや)には驚かされ続けた。もう少し早くこの地を訪れていたならば、摩尼寺奥の院の発掘調査段階から遺構の見方も変わっていただろうと反省する一方で、学生たちの卒業研究・修士研究に間に合ったことを安堵している。
 最後にいろいろ書きとめておきたいことがある。まず大分と山陰が決定的にちがうのは、いうまでもなく、磨崖仏の存否である。大分の場合、仏龕(ぶつがん)のように浅い岩窟に仏を浮き彫りにしており、それを庇護し礼拝するための「かけや」を「いわや」の前に設ける。一方、山陰に磨崖仏はない。不動院岩屋堂や焼火神社のように大きな岩窟を掘って、そのなかに懸像の仏堂をまるごと納めている。いまに残る山陰の懸造には「仏堂」としての独立性がつよく、対して、大分の懸造は「いわや」の前室としての性格が強い。しかし、摩尼寺奥の院の場合、岩窟や岩陰に石仏・木彫仏・石塔などを安置している。摩崖仏ではないけれども、信仰の対象を岩窟の内側におさめる点はやや大分に近く、とりわけ宇佐の龍岩寺奥の院との親近性は否定できないであろう。したがって摩尼寺においても、岩陰・岩窟の正面に「かけや」が存在した可能性を当然想定しなければならないし、じっさいにⅢ区では岩陰の直下で柱穴を検出している。
 次に年代の問題である。大分の古い磨崖仏の制作年代は平安後期~鎌倉前期であるという。そのほとんどが天台宗と係わりをもつようだが、大分で訪れた寺院に円仁再興伝承はみられなかった。山陰の有力寺院には円仁再興伝承があるけれども、それを疑問視する意見も根強くあり、昨年の摩尼寺奥の院の発掘調査においても、下層遺構の造営年代は10世紀以降にくだるという見通しをえている。興味深いのは、大分における磨崖仏の勃興年代と三仏寺投入堂の建築年代(1100年前後)がほぼ重なりあうことで、これをそのまま受け入れるならば、天台宗による地方山岳寺院の再整備は11~12世紀ころまでくだる可能性があるだろう。
 これと関連して、高瀬石仏の一根三茎仏を興味深く捉えている。近畿の白鳳~天平時代の流行 -それはもちろん唐618-917からの直接もしくは間接の影響によって生まれた文化である- が、平安時代の中期以降になって、地方で華開いたという見方ができるかもしれない。柳田国男の「周圏論」を応用して解釈してみよう。磨崖仏が大分で彫られたころの中国(宋960-1279)では、石窟寺院はすでに流行遅れになってしまっていた。南北朝から初唐・盛唐にかけて隆盛した石窟寺院の諸要素(石窟・磨崖仏・掛屋など)が、300年ばかり後の辺境日本、とりわけその山嶺地域で矮小化し日本化しながら開花した。こういう理解は、科研題目の「石窟寺院への憧憬」に偏向したものだという誹りを免れないであろうが、ここでは現状での拙い見通しを示したまでで、もっと説得力のある解釈が可能であるならば、ぜひともご教示いただきたいと願っている。

10富貴寺大堂03内部01


 さて、奥の院に存在する磨崖仏や加工段が平安時代中期以降にくだるにしても、仏寺としての開山伝承は7~8世紀まで遡る。六郷満山では仁聞菩薩、山陰では役行者が開山に係わる僧侶(修行者)の代表である。六郷満山諸寺の場合、宇佐神宮の境内にあった弥勒寺の僧侶が峯入りの行場としてあちこちに道場を設けたのが起源であろうと言われる。宇佐神宮が現在地に遷座したのは神亀2年(725)。その境内に弥勒寺が移転されたのは天平10年(738)。宇佐八幡神の化身とされる仁聞菩薩が六郷満山28寺を開創したと伝承されるのは、養老2年(718)のことである。奥の院「本殿」に代表される顕著な神仏習合の有り様はその時代まで遡るのであろうか。また、磨崖仏が彫りだされる以前の六郷満山「奥の院」は、はたしてどのような姿をしていたのだろうか。一方、摩尼寺奥の院では奈良時代に遡りうる土器が複数出土しており、奈良時代以前に人びとの活動があった可能性はもちろん否定できない。ただし、そこが「行場」と呼べるものであったかどうかは定かではない。
 建築史からみた場合、ひとつ注意しておきたいことがある。それは、比叡山延暦寺においてすら、最澄開山寺における根本中堂が「卑小の草庵」にすぎなかったことである。円仁の時代でも、それは大差なかったであろう。とすれば、奈良時代~平安時代中期の山陰や大分の山嶺に仏堂が存在したとしても、それは「草庵」風にイメージ化されなければならないであろう。

10富貴寺大堂01全景01



10富貴寺大堂02軒01


富貴寺大堂と善光寺本堂

 平安時代における六郷満山の仏堂といえば、豊後高田市田染の蕗(ふき)に境内を構える富貴寺を避けてとおることはできない。富貴寺もまた仁聞開山伝承をもち、宇佐神宮の庇護を長きにわたって受けて続けた。その境内に国宝の大堂(おおどう)が建っている(↑+前頁2枚の写真)。宇佐八幡大宮司の到津(いとうづ)家文書によれば、大堂の建立は12世紀後半とのこと。様式的には「平安後期」の建築とされる。 正面3間×側面4間の小さな和様の阿弥陀堂で、九州最古の仏教建築でもある。屋根は宝形造の行基葺。阿弥陀如来を納める四天柱のみ丸柱とし、側柱はすべて面取角柱とする点、若干住宅の匂いがする。
 不思議に思う方も多いであろう。なぜ、このように小さな阿弥陀堂が「大堂」なのか。それは民家史における「千年家」と似た概念なのだろう、とわたしは思っている。
 大堂の建設時期は磨崖仏の制作時期とほぼ同期であるとみて間違いなかろう。つまり、天台宗によって六郷満山の寺院が再整備された時期のモニュメントである。それ以前はどうだったのか、今なにも証拠は残っていないが、わたしの考えは上に述べたように、「卑小の草庵」を仏堂や道場としていただろうというものである。いまでも六郷満山の本堂や講堂は民家にみまがうような茅葺きの建物が少なくなく、その基礎を石場建から掘立柱に変えて、規模をさらに小さくすることで平安中期以前の「卑小の草庵」的仏堂のイメージを紡ぎ出せる。そのような草庵的仏堂が当たり前であった時代に、富貴寺に石場(礎石)建で行基葺の本格的な仏堂が建設された。「卑小の草庵」たる仏堂の側からみれば、それは「大堂」にほかならなかったのであろう。民家史でも、中世に遡る「千年家」がなぜ「千年家」と呼ばれるのかといえば、当時の民家があまねく掘立柱の建物で永続性がなかったからである。10年か20年ぐらいしか存続しない建物からみて、石場建の箱木家や古井家は「千年も持続する」建物に映ったから「千年家」の称号を獲得したのであろう。
 さらにわたしは、六郷満山における「卑小の草庵」仏堂の一類型として、磨崖仏のない「いわや」の正面に単純な「かけや」を付設したものも想定すべきと思っている。この場合、岩屋のなかには小さな石仏などの祭祀対象を納め、掛屋は掘立柱形式で、片流れや流造の屋根がふさわしいだろう。

11善光寺03正面

 最後にもう一つ紹介しておきたい仏堂がある。いま轟が摩尼寺「奥の院」遺跡上層建物の復元に取り組んでいる。昨年11月末の公開検討会であきらかにしたように、上層建物跡は8間以上×8間m以上の平面に復元できる。わたしたちは、これを8間×8間と仮定して復元を進めることにした。8間×8間は床下の平面であり、問題は床上なのだが、多くの類例を参考にしつつ複数の復元案を考えたすえ、最も可能性が高い床上平面は正面5間×側面7間の妻入形式ではないか、というところまで年末に辿り着いた。ただし、中世仏堂では方五間が典型であり、5間×7間の例が存在するのかどうかが不安であった。残念ながら懸造ではなかったが、平地に建つ仏堂なら全国に1棟だけある。しかも、大分の宇佐に。
 轟から送信されてきたデータをそのまま示そう。

  ●善光寺本堂 5×7間 大分県宇佐市大字下時枝237 室町中期

 これも、神仏のお導きかもしれない。

11善光寺02側面
  
 梵天山法性院善光寺は、豊前善光寺または芝原善光寺とも呼ばれる。天徳2年(958)、空也によって創建されたと伝える。本堂(重要文化財)は 建長2年(1250年)の大修理後、文禄および元禄に修理されたという(寺伝)。様式からみると、室町時代の前期から中期の作であろうか。単層寄棟造の妻入で、元禄に付加された唐破風の向拝が訪問者の目をひく。二軒平行垂木、組物は出三斗、木鼻は禅宗様。
 摩尼寺奥の院にここまで立派な仏堂があったとは思えないが、屋根を入母屋造トチ葺きに改め、建具を素朴にして懸造とすればよいだろう。あとは、倉吉の長谷寺本堂、三徳山の文殊堂・地蔵堂などを参考にして、山陰らしい懸造の仏堂を再現してほしいものである。
 
 以上、歳を跨いで大分調査の成果をレポートしてきた。非常に収穫の大きな旅であったが、このたび参詣したのは六郷満山33寺のうちの数寺にすぎない。すべての寺の「奥の院」を視察し、もっとひろい範囲で磨崖仏をみる必要があると痛感している。近いうちに、再訪するかもしれない。【完】

11善光寺01軒01
↑上の3枚はすべて善光寺本堂
  1. 2011/01/06(木) 03:48:46|
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