「木綿街道」悉皆調査(その2) 2.片原町エリア 片原町(↑)は新町の通りと直行してつながり、東西方向に通る街道筋に位置している。「木綿街道」は新町から片原町、宮の町と続いており、新町と並んで伝統的な町並みを良く残すエリアである。南側には、街道と同様に矩の手に折れた平田船川が東西の街道筋と平行して流れる。この「片原」という名称は、もともとは街道の北側のみに家並みがあったことに由来する。南側は原っぱで、家が建つのは安政四年(1857)以降のことであるという。また、明治九年(1876)には「片原大火」があり、26棟もの建物が焼失したという。
町内には「岡屋小路」「出し小路」と呼ばれる2本の路地が設けられているが、新町のそれとは違って河道と街道とを結ぶものではなく、街道から北側の区画への連絡道としての意味合いが強い。ただ、街道を挟んで南側にも河道へとつながる公道が設置されており、やはり水運による物資の運搬に重要であったことを物語っている。

<左>船川対岸より片原町を望む <中>「出し小路」 <右>船川と街道を結ぶ通路
街道沿いには約40棟の町家や長屋、土蔵等が軒を連ねている。切妻土蔵造妻入の町家は4棟で、新町に比べると少ない。うち2棟は現在も店舗併用住宅として使われている。町内の北側東端にならんで建っている飯塚酒店(明治初期)と來間屋生姜糖本舗(明治九年)である。ともに明治期の建築で、妻壁に海鼠壁の装飾がみられる。外部の改修がなされているものの、景観を損ねるものではないだろう。とくに飯塚酒店のミセ部分には、蔀戸(しとみど)が使われていたであろう痕跡が残されており、興味深い。この2棟の立地は、近年拡張された片原町と宮の町を区切る道路からよく見え、木綿街道の玄関口としてアイストップの役割を担っている。他の2棟(共に明治3年か?)は片原町中央付近に並んで建っている。他の2棟は住宅および車庫として使われており、外壁に鉄板を張るなど外観の改修が目立つ。形態はよく残っているものの、2棟の両側には新しい年代の住宅に建て替えられており、町並みとしては孤立している感が否めない。

<左>來間屋生姜糖本舗(手前)と飯塚酒店(奥) <右>連立する妻入型町家

その他の多くの建造物は平入である。なかでも街道北側に位置する酒持田本店(↑昭和3年)は、間口が9間に及ぶ超大型の町家で、格子や漆喰大壁、袖壁、屋号のヤマサン印のある軒瓦など特徴ある外観を呈している。また、妻入の土蔵や倉庫など、付属屋も多く残っており、町並み景観の構成上非常に重要な存在となっている。このほか、酒持田本店の向かいに位置する持田醤油店(明治期)も同じく平入町家形式で、海鼠壁の装飾が見られる。

<左>酒持田倉庫 <中>持田醤油店
気になっているのは、安政4年(1857)以降に成立したとされる街道南側だが、それらは1棟の土蔵を除いてすべて平入町家形式になっている点である。片原大火によって焼失した後だとしても明治以降の建築であり、切妻妻入町家があってもよいのだが、平入形式をとるのは敷地の奥行と関係しているのかもしれない。また、この南側の町家には、ほぼすべての家にカケダシが備わっていたという。ただ、その空間を使用しているのはわずか1軒で、その多くはブロックやモルタルで埋めてしまっているのが現状である。ただ、内部には来待石の石垣や屋内へととつながる階段が残っているところも見られ、ブロック塀を撤去さえすれば、復原的修景は可能かもしれない。
今回、街道沿いの建物外観調査を実施したが、平田のもう一つの交通路であった船川沿いの景観についても同様の悉皆調査が必要であると感じている。

<左>片原町沿いのカケダシ <中>ブロック塀ウラに残る石垣
今回の調査にあたっては、住民の方がたに聞き取りなどさせていただくこともあり、いろいろと不安なところもありました。しかし、どの方も快く調査に協力してくださり、たいへん感謝しております。また、木綿街道振興会の皆様には事前に広報等をしていただき、円滑に調査をおこなうことができました。重ねて御礼申し上げます。(タクオ)
- 2011/01/17(月) 13:03:02|
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